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今回はこういうお題でいきます。うーん、日本史と妖怪と
どっちのカテゴリに入れればいいですかね。ほとんどが
根拠のない伝説の話になるので、妖怪談義のほうがいいかな。
さて、両面宿儺は「りょうめんすくな」と読みます。

まずは『日本書紀』の記述を見てみましょう。「仁徳天皇の
六十五年、飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。
一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。
頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、
膝はあるがひかがみ(膝の後ろ)と踵がなかった。力強く軽捷で、

左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。皇命に従わず、
人民から略奪することを楽しんでいた。それゆえ和珥臣の祖である
難波根子 武振熊を遣わしてこれを誅した」仁徳天皇の65年は
5世紀前半と考えられます。また、この時代の飛騨国の範囲は
よくわかりませんが、岐阜県北部のあたりでしょう。



両面宿儺は、朝廷に従わなかった盗賊の首領のようです。
さて、ここからは伝説の話になります。両面宿儺は頭は一つ
ですが、顔が2つあって、反対の方向を向いている。
つまり後頭部というものがないんです。

前後に目があるというのが便利ですよね。背後がないので、
不意打ちされません。また、手は合計4本、足はくっついて

2本ですが、前後に足の指があり、つま先が前を向いている。
膝が4つあって、膝の裏と踵がないということです。



背丈は8尺(2m超)で、足が早く、動作も敏捷。これは
前後に指があるためで、足の指に力を入れて素早く向きを
変えたりできるわけです。ここで、みなさんの中には、
両面宿儺はシャム双生児ではないかと思われた方が
おられると思います。

ただ、一般的なシャム双生児は、頭が2つの場合は
それぞれ独立していることがほとんどなんです。
下図は有名なシャム双生児のアビーとブリトニーです。
脳が2つあるため、それぞれ独立した人格を持っている。


合成写真ではありません。


両面宿儺のように、一つの頭に2つの顔がついているという
ことは、頭部の神経などを考えれば、産まれても
長期を生きのびるのは難しい気がします。これ、自分は
もし両面宿儺が実在したとして、シャム双生児でもなく、
ふつうの一卵性双生児なんじゃないかと思います。

つまり両面宿儺は2人いた。両面宿儺は山に砦をかまえ、
村里を襲っては略奪をくり返していた。そこで村人の
訴えにより、大和朝廷は武振熊(たけのふるくま)という
武人を遣わし、これを討伐した・・・

これも伝説なんですが、両面宿儺のやられ方はかなり
マヌケです。宿儺の本拠地は出羽ヶ平の洞窟で、宿儺は
その入口に立ちふさがり、次々に岩を投げつけてきます。
近づけない振熊は剣を投げ、それが宿儺の腕に刺さって、
痛みのあまり飛び上がった。

神功皇后と応神天皇
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そのとき、あまりに強く飛んだので、頭が洞窟の天井に
はまり込んで動けなくなった。そこで振熊は宿儺を縛り上げ、
体を下に降ろして首を斬った・・・こんな伝承なんです。
当然ながら、実際にあったこととは考えられません。

ただ、この時代に飛騨で大規模な反乱があったのは事実では
ないかと思うんです。応神天皇は神功皇后の子ですよね。
三韓征伐の帰りに応神天皇を産んだ皇后は、
都に帰還しようとしますが、そこで待ち受けていた仲哀天皇の
嫡男、次男である香坂皇子、忍熊皇子と滋賀で戦闘になります。

両面窟


この政変に皇后側が勝利し、応神天皇が即位して、長く
天皇がいなかった時代に終止符を打った。で、このとき、
専門的になるので詳しく書くのはひかえますが、時期をほぼ
同じくして、九州から関東まで、全国的に騒乱が起きてるんです。

中央での戦いが各地に波及したのだと思われます。ですから
飛騨の両面宿儺の反乱も、応神とその子の仁徳王朝に反抗して
飛騨の山間に逃れた人々のゲリラ戦だったのはないかという
説があるんです。はっきりしたことはもちろん言えませんが、
自分は、そういうことがあってもおかしくないだろうと思います。

ムクリコクリの鬼
キャプチャ

平安時代、平将門の乱のときも、その容貌は京の都に
おそろしい姿として伝えられました。また、鎌倉時代の元寇でも、
ムクリコクリ(蒙古・高句麗の連合軍)の姿は、鬼のような
妖怪として東北地方まで伝わってるんですね。

さてさて、ですから、両面宿儺も、都の民衆に恐怖感を与え、
討伐の正当性を主張するためであった可能性が高いでしょう。
敗者は、勝者によって好きなように描かれてしまうのが
歴史なんです。ですから、伝承の裏側を読み取ることが大切
なんですが、これは難しいことです。では、このへんで。