うちの小5になる息子のこと。なんでも学校で一番の友だちが携帯電話を

買ってもらったから、自分にも買ってくれと言ってきた。
それで、小学生には必要ない、と答えた。うちは塾にも行かせていないし、
送り迎えなどで実際に必要になる場合はまずない。
ただ、中学生になったら友だち付き合いで必要になることもあるだろうから、
そのときにまた考える、と言ったんだよ。そのときはシュンとなったが、
特に口答えをしたりダダをこねるということもなかった。
何も言わないのであきらめたのかと思っていたら、2週間ほどして、
なんとガレージにあった板に自分で液晶画面とプッシュボタンを
マジックで書いてそれに向かってしゃべるということを始めたらしい。
「らしい」というのは、俺は毎日帰りが遅いために、


実際に息子がそういうことをしている場面を見たことはないからだ。
妻から話を聞いて、最初は買ってやらなかった腹いせをしているのか
とも思ったが、どうやらそうでもないらしい。
妻や5歳の弟が見ているところでは絶対にその板電話は使わない。
ただ、夕方などに板を持ってふらっと外に出ていくことがあり、
様子を気にした妻がこっそりあとをつけてみたら、庭の植え込みの陰で
一心に板に向かって会話をしていたという。
この話を聞いたときも、そんなに大事とも思わなかった。
子どもらしい遊びなのだろうし、実害もないのだからそのうち飽きるだろう
と思ったんだ。ところがこの間の日曜日、
夜中の2時ころに息子がふらふら外に出て行くということがあり、


たまたま遅くまで仕事をしていた俺が、玄関の戸があく音を聞きつけて
何だろうと見に行くと、やはり前に話に聞いたとおり、
塀の陰にしゃがみこんで夢中になって板電話に話しかけていた。
これはさすがに容易ならんと思い、息子をつかまえて書斎に連れていき、
俺の机の上に板電話を置かせて、まあ頭ごなしに怒るわけではなく話を聞いた。

それによると、板電話を作ったのはほんの遊びで、
そのまま興味をなくして机の引き出しに入れておいたのが、
たまたま勉強をしているとき、着信音が鳴っていることに気づいたという。
不思議に思って出てみると、男の子供の声で「◯◯さん(息子の名前)ですか」
というのが聞こえたと言うんだ。相手は「ココさん」と名乗り、
息子と同じ小学5年生でずっと離れたところに住んでいるという。

それからは板を机の上に置いておくと、ときど着信音が鳴って、いつも
ココさんが電話に出る。5分から10分くらい学校であったことを話して終わる、
こんな内容だった。わけがわからないのでいろいろと質問をすると、
着信音は自分にしか聞こえない。
ココさんからかかってくるだけで自分からかけることはできない。
ココさんは話が面白いけど、ゲームやテレビ番組のことは一つも知らない。
大きな家に一人で住んでいて、家族はいない。
いつも自分で料理を作っていて、その献立を教えてくれる・・・こんな感じだった。
さてどう言って諭したらいいのだろうか、
それともカウンセラーなんかの専門家にまかせたものか思案していると、
息子の様子が変になった。視線が板電話のほうに向いて、


両手を強く握りしめている。どうしたのか聞くと、電話が鳴っているという。
俺には何も聞こえなかったが、「貸してみろ、父さんが出てみる」
と言って電話を取った。何も聞こえるはずはない、
と思いながら耳にあてたら、やはりというかタダの板だ。バカバカしくなって
電話を置こうとしたとき、板から「グオオオオッ」という音が聞こえた。
空洞を風が吹き抜ける音、猛獣が吠える音、そんな感じだった。
驚いて板を取り落しそうになったが、
音がしたのはそのときだけで、どう見てもただの板だ。
気のせいか、それとも外で車の音でもしたのだろうと考え、
とにかく息子には、お前が今話したことは全部心のなかに
自分で思い描いた空想で、そんなことはありえないのだから、と話した。


それと、もう二度とこの板にはさわらないようにということも約束させた。
息子は黙って聞いていて、泣いたりするということもなかった。
板電話はそのまま書斎のオーディオの台に上げておいた。
もうしばらく息子の様子を見て、何でもなければ捨てようと思ったんだ。
昨日のことだ。事故に遭ったんだよ。隣県への出張の帰りに社用車で峠道を
走っていたら、カーブで対向車線の軽自動車がおりからの雪でスリップして、
俺の車の斜め横に突っ込んできた。強い衝撃があり、
車は尻を振って回転し、右手のガードレールをなぎ倒して崖から落ちたかけた。
しかし完全には落ちず、斜めに生えている木に乗り上げて止まった。
今だからこのように言えるが、そのときはどういう状況かわからなかった。
軽自動車のほうも無事ではないだろうと思った。


車は大きくボンネットが潰れ、身動きができなかった。
右手と両足に痛みがあり、頭から血が流れていると感じた。
右腕はまったく動かず、骨折しているのかもしれない。左手で携帯電話を
取り出したが、電源が入っていない。事故の衝撃で壊れたのだろうか。
それよりも少し腕を動かしただけで、車がゆさっと揺れた。
すごく不安定な状態にあるんだと思った。
そのとき、電源が入ってない携帯に着信音が鳴った。動いた拍子に
つながったのかと思った。苦しい姿勢で耳にあてると長男の声がした。
「お父さん、事故に遭ったんでしょう。動くと落ちるってココさんが言ってる。
今から助けに行くって」それだけ言って切れた。
「そんなバカな、どうして事故のことがわかるんだ」と思ったが、


頭が混乱してそれ以上のことは考えられない。
頭からの血がボタボタとスーツの上に落ちた。
車が大きくかしいで、ああ、落ちるのかとあきらめかけたとき、
ふっと上に浮き上がったように感じた。いや気のせいじゃなく、
潰れたフロントガラスから見える風景が間違いなく浮き上がっていた。
車が下から持ち上げられているのだと思った。
ガガガッと金属がこすれる音がして、アスファルトの道が見えた。そのまま
タイヤの向きに関係なく、車はすごい力で横から道路の左脇まで押された。
そこで意識が途切れてしまうんだが、
最後に大きな黒い影が道の脇に立っていたのを見たと思う。
毛むくじゃらだが熊などよりはるかに大きい影で、


頭は不釣り合いに小さい子どもの顔だった。長男の顔に似ている気もした。
・・・気がつくと病院のベッドにいて、右手は骨折していたが、
あとはそうたいしたことでもないようだった。相手の軽の人も命に
別状はないらしい。頭を強く打っているのでしばらく安静にと言われた。
ベッドの横に妻と息子たちの心配そうな顔があり、長男に

「お父さんに電話したか」と聞いたが、少し間をおいて、ううんと首を振った。
「書斎の板電話にさわったか」とも聞いたが、それには答えなかったな。

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