今回はこういうお題でいきます。「通りゃんせ」という
童謡はみなさんご存知かと思います。この歌詞は
おそらく江戸時代にできたと考えられるので、
童謡というより、わらべ歌のほうがしっくりくるかもしれません。

歌詞は、「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります 行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ 」
です。

これを歌いながらやる子どもの遊びもありますよね。
天神様の門番が2人いて、他の子は歌いながら一列になって
門番の間を通り抜けますが、歌が終わると同時に
門番はつないで上に上げていた手を下ろし、
ちょうどそこにいた人をつかまえる・・・

菅原道真
キャプチャddddf

なんか怖い感じのする遊びです。ですので、「通りゃんせ」の
歌の哀愁をおびたメロディともあいまって、
生贄を選ぶための歌である、神隠しと関係がある、
財宝の隠し場所を示している、人買いに売られるなど、
さまざまに言われてきました。

さて、この歌詞に出てくる「天神さま」ですが、ご存知のとおり、
一般的には菅原道真のこととされます。死して後、左遷
させられた恨みで藤原氏などに祟りをなし、御霊として恐れられ、
朝廷から、鎮魂のために天満大自在天神の神格を与えられた。

では、この歌に出てくるのはどこの天神さまなんでしょうか。
天神社は京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮を筆頭に
全国にありますが、どうやら歌ができたのは関東からのようで、
神奈川県小田原市の山角天神社、同市の菅原神社、埼玉県
川越市の三芳野神社がそれぞれ発祥地を主張しているようです。

キャプチャ

次に「お札を納める」のはなぜか。これは七五三のお祝いという
ことでしょう。ただし、七五三の行事自体は明治時代に
始まったものです。それ以前は、武家の男児は5歳で
「袴着 はかまぎ」、女児は7歳で「帯解き」という
子どもの衣服から卒業するための儀式がありました。

あと、男子はおよそ15歳で「元服」ですね。完全に大人と
同じ服になります。子どもは「七歳までは神のうち」と
言われました。いつ神様に引かれて命を失ってしまうか
わからないという意味です。それが七歳をすぎると
体が丈夫になり、おいそれとは死なないようになる。



世界的に、昔は乳幼児の死亡率が高かったんです。
その死因の多くは感染症ですね。細菌やウイルスは、まず
蚊などの昆虫が媒介します。現在のように側溝に
蓋もなく、消毒もありませんした。それと食中毒です。

赤痢菌、ボツリヌス菌、大腸菌などは食物を通して体内に  
入ることも多かったんです。もちろん昔は冷蔵庫などはなく、
かなり日がたった食物も、もったいないと食べてましたからねえ。
そして定期的にコレラなどの疫病も流行します。



日本で統計がとられるようになって、もっとも古い記録、
1899年(明治32年)の乳児(生後1年以内の子ども)の
死亡率は15%です。ですから、7歳までの子どもを考えると
30%近くが亡くなっていたと考えられます。

これは昭和の時代になっても大きく、1950年(昭和25年)
の統計で、生まれた子供の5%が5歳までに死亡しています。
当時はまだ結核が猛威をふるっていましたし、映画 『火垂るの墓』
で見るように、太平洋戦争の影響もあったでしょう。



さて、歌の話に戻って、ここで疑問なんですが、なぜ行きは
よくて帰りは怖いのか? せっかく子どもが7歳まで育ち、
お札を納めて、これから体も丈夫になるのに、
何か怖いことが起きるんでしょうか。これは自分の推論
なんですが、7歳をすぎると家の仕事をまかされたり、

働かせられたりするようになるからじゃないでしょうか。
昔は兄弟が多かったので、まず下の子の子守をさせられます。
田畑の仕事も手伝いさせられるようになり、
中には商家などに奉公に出される子もいます。また農家の
次男、三男などであれば、嫁ももらえずこき使われたり・・・

丁稚奉公
あsdさd

さてさて、ということで、この歌は昔の子どもたちに
人生はたいへなんだよ、子どものうちがまだよかったと
思うかもしれないよ、と知らせ諭してるんじゃないかと
考えるんですね。これに比べて、今の子どもは
恵まれてますよね。少子化のために一人っ子も多く、

兄弟間の競争もないし、家の仕事もお手伝いレベルで、
本格的な労働力としてあつかわれることはありません。
栄養状態もよくなり、子どものうちに死亡するということは
ほとんどなくなりました。コロナでも、子どもはかかっても
平気で、亡くなるのは高齢者ばかりです。では、このへんで。