俺、大きめの寿司屋で板前の見習いやってるんです。
まあそりゃ出前持ちもやりますけど、寿司職人修行中ってことに
しといてください。でね、おとといの夜、11時半頃のことですね。
あんま客も少なくて、けっこうヒマな日だったんですよ。
店の電話が鳴りまして、おかみさんがとったんです。
電話はすぐに切れたんで、きっと出前の注文だと思ったんですが、
おかみさんは受話器をいじって相手先の番号確認したんです。
その後、親方と俺を手招きしたんでカウンターの奥に入ったんです。
「あのね今、出前の注文が来て、特上1人前だったんだけど」
「ネタは残ってるよ。どしたん?」  「それがね、発信先が○○ちゃんの
マンションの部屋なのよ」この〇〇ちゃんというのが、

店からバイクで10分もかからないマンションに住んでた元クラブの
ホステスの人で。元というのは、先月自殺して亡くなってるんです。
睡眠薬を飲んで。そうですね、月に5、6回は注文がありました。
ほとんど1人前ですけど、特上しか頼まなかったんです。
うちの特上は大トロ、ウニ、アワビ、カニ・・・4000円ですから、
いいお客さんでした。直接店にも何度も来られてましたよ。
「で、どんな声してたんだ。〇〇ちゃんの声か?」 「それが、
ぼそぼそっと特上1人前って言っただけなんで、はっきりしないのよ」
「じゃあ、別人だろ。だいたい幽霊が寿司注文できるわきゃねえや」
「そうだけど、でも、同んなじ部屋からだったし」
「新しく住人が入ったんだろ」  「そうかもしれないけど、気味が悪いよう」

「注文されたのが間違いないんなら、つくるしかねえだろ」
「配達はどうすんですか?」 「お前がやるに決まってんだろ」
「えー、怖いですよ親方」  「馬鹿、幽霊なんていねえ。新入居の人か、
さもなきゃ、生前のお仲間が集まって故人を偲んでるとかだろ」
「あ、そうですよね。きっとそうです。
だから電話の履歴でわかると思って住所も言わなかったんですよね」
「でもねえ、法事みたいなことなら1人前というのが変じゃない」
「まあ、わかった。今から握るから。念のために特製にしとく。
亡くなった〇〇ちゃんの好物はカニだったよな」
・・・ということで、特上一人前をバイクで出前することになったんです。
いや、正直言って幽霊ってことはないと思いましたが、やっぱ薄気味悪い・・・

そこのマンションは賃貸だけどすごい豪華で、家賃は俺の給料手取りの
倍はいくと思います。入り口に24時間ガードマンがいるんです。
その受付に顔を出して、寿司の出前だって声かけました。
そんときいたのは顔見知りの、俺より数歳上くらいの人です。
部屋番号を告げると、「えー、おい。そこまだ空き部屋になってるんだけど」
「うわ、来た」と思いました。「でも、うちのおかみさんが注文受けたんです。
間違ったことなんてないです。そこ友人の人たちとか来てないですか」
「そんな記録はないなあ」ガードマンは訪問者名簿をめくってましたが、
顔におびえの色があったように思えました。
「じゃ、いっしょに来てくださいよ。もし部外者が入り込んでたら大変でしょ。
仕事じゃないですか」  「・・・わかった」ということで、

そのガードマンといっしょに寿司桶持ってエレベーターに乗ったんです。
8階の部屋でした。外には面しておらず、廊下にも空調が効いてるんです。
ドアの前まで来たんですが小窓は暗かったです。といっても、
これは玄関の電気つけてなきゃ人がいてもいなくても暗いんですが。
「自分はそこの曲がり角の陰にいますから」  「ちょ、そんな一緒にいてよ」
「でも、もし不審者が入ってるなら、自分の姿見れば警戒するでしょ。
暴力沙汰になるかもしれませんから。大丈夫、何かあったら飛び出しますから」
ガードマンはこう、プロの戦略なのか怖いのかよくわからないことを言って、
曲がり角の向こうまで後じさって行ったんです。
そのとき、急に携帯にマナーモードの着信がありました。
あやうく跳び上がりそうになりましたよ。やっぱビビッてたんですね。

親方からでした。「おう、着いた頃だろ。もし寿司を相手が受け取って
怪しい感じがしたら、お代受け取るな。それと、そうだなあ、
10分くらい前で待ってろ。何か起きるかもしれんから」こう言って、
こっちが問い返す前に切れちゃったんです。しょうがないので
部屋の呼び鈴を押したんです。応答なし。正直ほっとしました。いないなら、
それはそれで間違いかイタズラなんだし。念のためもう一度押したら、
ややあってインターホンから、「は・・・い」というか細い声が聞こえて

きたんです。「う!」〇〇さんの声には似てる気がもしたんですが、はっきりは
わかんなかったです。待っていると、ドアが開き始めました。その時間の長く
感じられたこと。ドアは15cmも開かずに止まりました。でね、素肌の手が
出てきたんです。ひじから先。真っ白い若い女の人の手でした。

「ドアの陰にいてください」その人が言いました。
「中をのぞかないようにして、お寿司の桶だけこっちに入れてください」
相変わらずか細い声でした。ドアは外開きでしたのでそれは
可能だったけど、「これ、ヤバい」って直感したんです。
ガードマンのいるほうをちらっと見たんですが、出てくる気配はなし。
でね、俺はドアにぴったり張りつくような形で、寿司桶持った右手だけ
中に入れて・・・ そしたら寿司桶がふっと受け取られたんです。
あわてて手を引っ込めると、ドアが閉まりながら「あのー、お代は・・・」
ここで親方に言われたことを思い出しました。
「いや、親方がお代はサービスだって言ってました。今後ともご贔屓に」
マズイことを言ったかな、とすぐに気がつきましたよ。

もし幽霊なら、贔屓にされちゃたまんないです。
「そうですか・・・ありがとうございます」ドアが閉まるとダッシュで
曲がり角まで戻って、そしたらガードマンがしゃがんでました。「いる、
人か幽霊かわかんないけど寿司受け取った。あんた出番じゃないのか?」
「そうだけど、こっからだと腕しか見えなかった。・・・真っ白だったよな」
「ああ、それがどうした」その態度にだんだん腹が立ってきたんです。
「ほら」ガードマンが制服をまくって腕を見せました。
「黄色いだろ。照明のせいでこうなる。あんただってそうだし、
 ドアの前はキーや足元のためにこの照明が一番強いはずで、
 真っ白ってありえない」ゾーッとしました。「これからどうすんの?」
「とりあえず本部に連絡して応援を呼ぶ。それから入ってみるよ。あんたは?」

「親方から10分ほど待っててみろって言われたから、もう少しいるよ」
でもね、その後、その場では何事もなかったんですよ。俺だけ下に降りて
マンションを出ました。そこで、植え込みの中に〇〇さんがいたんです。
あの死に装束っていうんですか。火葬されるときの白い着物を着て、
一目でわかりましたし、不思議に怖くなかったんです。むしろ神々しい
感じさえしました。〇〇さんは俺に向かって一礼し、そのとき心の中に、
「親方によろしく」って声が聞こえた気がしました。〇〇さんはそのまま、
白い薄光する固まりになって、シュッと空に上ってったんです。
バイクを走らせ、店に戻って親方にそのことを伝えました。あとは後日談ですね。
ガードマンは機密だってしぶってましたけど、話を聞かせてもらいました。
あの後、応援が2人来て、部屋はチャイム鳴らしても応答なし。

鍵がかかってたから、合鍵で入ったものの、
部屋の中は家具もなく整えられてて、人がいた気配はまったくなし。
ただ、そのガードマンが本部から怒られたってこともなかったそうです。
ええ、この手のことってよくあるらしいんです。それで、
手がついてないラップがかかったままの寿司桶が玄関にあったそうす。
翌日の午後、それを返してもらって店に戻りました。親方に見せると、
「精魂込めて握ったからねえ。それに」そう言ってラップをとり、
しなびたてしまったカニの切り身を裏返して俺に見せたんです。
はっきりとわかりましたよ。おそらく煮詰めた寿司醤油で書いただろう字が、
焦げたように黒くなってました。「南無阿弥陀仏」って。今度、店員全員で
〇〇さんの墓参りにいくことになったんです。だいぶ遠方ですけど。