こんばんは。私、沢田浩美と言いまして、職業は主婦。でも、専業主婦と
いうわけじゃなく、週に4回ほどスーパーにパートに出て、レジ打ちを
やっていいます。年齢は38歳。夫は証券会社のサラリーマンで、
子どもは2人、男女で姉が高校生、弟は中学生、やっとこのごろ手がかから
なくなってきました。弟はサッカー部に入っていて、毎週、大会や練習試合が
あるので送り迎えはたいへんですけど。それで、この間の日曜のことです。
夫はゴルフに出かけていて、息子は学校で通常の練習、娘は友だちと
遊びに出ていました。私としては、ひさびさにゆっくりできる日だった
んです。午前中に洗濯と掃除をすませ、午後からはのんびり
テレビを見ていたんです。といっても、テレビ番組ではなく、
インターネットのyoutubeなどです。どんどん動画を切り替えて見ていると

あっという間に時間がたってしまうんですよね。それで、

飲んでいた紅茶のおかわりをいれようとしたとき、

玄関のチャイムが鳴ったんです。誰だろう?
息子が帰って来るにはまだ早いと思いながら出ました。そしたら、
ドアの外に立っていたのは若い男性でした。髪は短く、もう暑くなってきて
いたのに、黒いスーツをビシッと着込んでいたんです。それだけなら
いいんですが、ネクタイまでもが黒。葬儀屋を連想しました。
訪問販売だったら玄関にあげないようにしよう。そう思ったんですが、
その人、今、外にいたはずなのに、気がつくといつのまにか玄関に入っていて、
名刺を手渡されていたんです。それには、「昔の夢売ります。過去商事、
高田長城」と書かれていました。これ、不思議ですよね。

うちの玄関はチェーンロックがついているのに、自分でいつ外したのか
覚えがなかったんです。あと奇妙なのは、その人は手に何も持っては
いなかったんです。普通、訪問販売といったら、商品見本とかパンフレットの
入ったケースを持っているはずなのに。まったくの手ぶらだったんです。
渡されたのは、ポケットの名刺ケースから取り出したその名刺だけ。
まるで手品みたいだったんですが、その場面、今考えてみてもよく
思い出せなかったです。「え、過去を売るですって? どうやって、
そんなことができるんですか?」 「何、簡単です。お宅にはテレビは
ありますよね。ああ、ある。じゃあ、それだけで十分です。他には何も
必要ありません。それに、今回はうちの会社の開店サービスとして、
過去の視聴は無料にさせていただいてるんです」こんなことを言ったんです。

会話が噛み合いませんでした。いったいどうやって過去を見るというんだろう。
そんなことができるはずがない。催眠術でもやるんだろうか?ともかく
何かを買わせようとしてるのは間違いない。できるだけ早く
追い返さなくちゃ・・・そう考えたんですが、その男が「上がってもよろしい
でしょうか」と聞いてきたとき、「散らかってますが、どうぞ」と言って
しまったんです。そんなつもりはまったくなかったのに。まるで魅入られた
ような感じでした。その人、たぶん20代だと思ったんですが、特に美形と
いうわけでもなく、特徴のない、のっぺりとした顔立ちで、体格も華奢だった

んです。「こちらです」と言って居間に案内すると、その人・・・高田さんは
部屋の中を見回して、「ああ、素晴らしいお部屋です。壁の色もすごく心が
落ち着きます」と言いました。お世辞なんでしょうけど、うれしかったです。

じつは、5年前にローンで新築したばかりの家だったんです。アパートから移って
きたんです。この家を買うときにはずいぶん考えました。なにしろ30年の
長期ローンでしたから、完済するころには60歳を過ぎてしまっています。
夫も私も、人生で一番高い買い物だったんです。高田さんは、「テレビも新しい
ですね。それに大きい。何インチですか?」と聞き、私が「80インチだった
はず」と答えると「さっそくですが、過去のサンプルをお見せします。テレビの
リモコンをお貸しください」と言い、私が手渡すと、「ああ、最近のは複雑ですね。
チャンネルがいっぱいある。こっちはインターネットですね」と、しばらく
リモコンをかちゃかちゃいじっていましたが、「うん、これでいい。同期したはず
です。今から過去をお見せしますよ。どの場面がいいですか」と言い、冗談なんだ

ろうと思いながらも、「えー、本当に過去が見られるんですか。じゃあ子どもの

 

ころ。そうですね、小学校前くらいがいいかな」私はそのころ、千葉の実家に
いて、亡くなった母もまだ健在でした。そしたら、高田さんは手の中のリモコンを
くるりとひっくり返し、何もボタンのないほうの面をあれこれ指で操作したんです。
そしたら、唐突に消していたテレビがつきました。で、テレビにはやや黄色がかった
画面が出てきたんです。粒子が粗く、昔のフイルム映画みたいな画面でした。それ、

私が住んでいた千葉の漁師町の実家だったんです。驚きました。画面に走り出て

きたのは、当時の服装をした子どもの私で、そのあとに出てきた幼児は4歳下の弟。

両親もいました。父はまだ健在ですが、母はこの5年後に亡くなって・・・「これ、

どういうことですか? どうやって映してるんです?」 「いや、それはお答えでき

ません。当社の企業秘密なんです。ですが、どこのメーカーのテレビでも、
どのタイプのリモコンでも過去の場面を呼び出せるよう研修を受けております。

こんなこととても信じられないですよね。でも、画面の中にいるのは確かに私だし、
背景にあるのは懐かしい昔の家・・・もう取り壊されているのに。「さあ、次に
いきましょう。奥さん、どこかリクエストされたい場面はありますか? どの時代にも
戻ることはできますよ。理論上未来を見るのは不可能ですが、なんだったら生まれる
前の時代にも・・・」 「生まれる前?どういうことですか?」 「前世ですよ。

人間、誰しも前世はあります。ただ、見るのはお勧めしませんけども」私が考えて

いると、高田さんは「じゃあ、大学時代にいきましょう。このリモコン、どうも

そっちに行きたがっているみたいだ」 そして画面が変わりました。画質もだいぶ

よくなって、現代のテレビ画像に近づいてました。で、映ったのは大学の3,4年の

ときに彼と同棲していたアパートの一室、すぐにわかりました。私はベッドに

寝ていて、隣にはその頃の彼がいたんです。私がなっていた目覚まし時計を手を

 

伸ばして止め、彼に「さあ、今日こそは大学に出ないと」と言ってました。

音声もはっきり聞こえたんです。彼は「いやだよ、行きたくない。経済学なんて

ツマラナイし、今日は昼からオーデイションがあるんだ」そう言って、ゴロリと

壁のほうに向きを変えたんです。「んもう!」私は一人で起き上がり、部屋に

ついている小さなキッチンのほうに行って見覚えのある黄色い、クマがついた

カップから歯ブラシをとって水道を出し、歯磨きのチューブを取って・・・
すっかりあの頃の気持に戻っていました。あれからもう何年たったんだろう。
18年? その年月の長さに愕然としました。そのとき高田さんは「どうです。
もしこの時代に戻れるとしたら、これには料金が発生しますが、お安いと
思います。なにしろ人生をやり直すことができるんですから・・・」
このとき、私はささいな行き違いから、彼とは別れてしまっていました。

彼は音楽をやっていたんですが、結局ものにはならずにサラリーマンとなり、
10年後くらいに交通事故で亡くなっていたんです。もちろん結婚して
いました。私が言葉を口に出せないでいると、玄関のチャイムが鳴り、
チェーンロックだけしてあったので、ドアを開けて「今帰ったよ。この鎖
外して」という声が聞こえてきたんです。息子の声でした。高田さんは

やや悔しそうな顔になり、リモコンをいじるとテレビ画面は消えました。
そして立ち上がり、「ああ、子どもさんですね。いや、おじゃましました。
さっきの過去に戻る話、ぜひ考慮してみてください。もし決心がつきましたら
名刺の番号にお電話くだされば。さっきも言いましたように、キャンペーン中
ですのでお安くなっております。ただし、一度戻ると元には帰れませんので、
慎重に選択することをお勧めしますよ。では、今日はこれで」そう言って、

 

部屋を立って玄関に向かったんです。私は・・・ぼうっとしていたんですが、

慌てて後を追い、先回りしてチェーンロックを外しました。外で待っていた

息子と入れ替わるようにして、高田さんは帰って行ったんです。息子は

スポーツバックを置くと「おやつある?」と聞いてき、私が「この前のケーキが

まだ残ってるけど食べる? 今日は試合があったの?」 「ううん、普通の練習」

そう答えが返ってきました。それから息子がケーキを食べている間、ぼんやりと

座ってさっき見たテレビの過去の場面のことを考えていたんです。あれは本当

なのだろうか。もし過去に戻れるとして、費用はいくらくらいなんだろう?

 この名刺の番号に電話をかけてみようか。でも、もう現在には戻れないって

言ってたし・・・いくら考えても決断はつきませんでした。夫はいい人です。

最近、お腹の脂肪がついたとなげいていますが、今現在、私は幸せなはず。

でも・・・みなさんだったら、どうしますか?