こないだ「箸墓と倭迹迹日百襲姫」という記事を書いたら、かなりの反響があり、
古代史への一般的な関心は薄れてると思っていたので意外に感じました。
今回はこのお題でいきますが、自分は邪馬台国畿内説の立場で書きますので、
その点をお含みおきください。まず、三角縁神獣鏡とは何か?ということ

ですが、すべてを書くとなると、本が一冊できてしまうので、

ここでは概要だけにとどめます。

これは古墳時代初期の遺跡から多く出土する鏡です。面径は平均20cm程度。
魏の単位で9寸から1尺にあたります。この時代、中国の鏡は手でつり下げて
化粧などに用いる日用品でしたので小さく、三角縁神獣鏡はそれよりずっと

大きいことになります。葛洪が317年に書いた神仙書『抱朴子』には、

径9寸以上の鏡を用いれば神仙に出会うことができる、といった記述があり、

もしかしたらそのことを踏まえてわざと大きな鏡を用いていたのかも

しれません。多くが凸面鏡であり物を映して見るのには適しません。

 

三角縁神獣鏡



こないだ「箸墓と倭迹迹日百襲姫」という記事を書いたら、かなりの反響があり、
古代史への一般的な関心は薄れてると思っていたので意外に感じました。今回は

このお題でいきますが、自分は邪馬台国畿内説の立場で書きますので、その点を

お含みおきください。まず、三角縁神獣鏡とは何か?ということですが、すべてを

書くとなると、本が一冊できてしまうので、ここでは概要だけにとどめます。

これは古墳時代初期の遺跡から多く出土する鏡です。面径は平均20cm程度。
魏の単位で9寸から1尺にあたります。この時代、中国の鏡は手でつり下げて
化粧などに用いる日用品でしたので小さく、
三角縁神獣鏡はそれよりずっと大きいことになります。葛洪が317年に書いた
神仙書『抱朴子』には、径9寸以上の鏡を用いれば神仙に出会うことができる、
といった記述があり、もしかしたらそのことを踏まえてわざと大きな鏡を
用いていたのかもしれません。多くが凸面鏡であり物を映して見るのには適しません。

 

画文帯神獣鏡



三角縁神獣鏡は古墳内部の副葬品として出土することがほとんどで、
明らかに葬具(葬送に用いて墓に埋納するもの)であったと考えられます。
日本全国で現在500枚以上の出土があり、
そのうち半数以上が近畿地方です。ついで多いのが九州地方ですが、
近畿の三分の一以下の数ですね。また、はっきりした三角縁神獣鏡は、
中国では出土していません(最近、発見はありました)。  
そもそも三角縁の鏡自体、中国での出土は数えるほどなのです。

さて、三角縁神獣鏡の「三角」の部分は縁の断面が三角であることからきていて、
上記のように中国鏡には見られない特徴です。「神獣」は神仙界に住む

想像上の動物、その他に仙界の神である、西王母・東王父が描かれています。
三角縁神獣鏡には魏の年号(景初三年、正始元年)を銘文に持つものがあり、
(魏の年号を持つ鏡は他にもあり、景初四年の銘があるのは斜縁盤龍鏡 )
景初三年(239年)は、卑弥呼が魏に遣使したとされる年です
(卑弥呼の遣使は景初二年説もある)。

 

方格規矩鏡



次に、卑弥呼の鬼道についてみてみましょう。
「其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まること七・八十年。
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。
名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。
年已(すで)に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。

王と為りしより以来、見る有る者の少く、婢千人を以て自ら侍せしむ。

唯、男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。」


(その国はもとは七〇~八〇年の間、男子を王としていたが、倭国は乱れ、
長い間お互いに戦いあった。そこで一人の女性を共立して王とした。
その名を卑弥呼という。鬼道を用いて民衆をよく惑わし従えた。
年は高齢で夫はいない。男弟がこれを助けて国を治めている。
王となってから卑弥呼の姿を見たものは少ない。
侍女千人を仕えさせている。ただ、男子が一人いて飲食を給仕し、
その言葉を伝えるために王宮に出入りしている。宮室、楼観、城柵が
厳重に整備され、つねに人がいて兵として守護している。)

卑弥呼の鬼道とは何か?説は3つくらいありますね。
① 神が憑依してその言葉を伝える北方的なシャーマニズム
② 先祖の霊、首長の霊を祀る宗教祭祀
③ 初期の道教(神仙思想)

 

内行花文鏡



これ、昔は①説が多かったんです。②で「鬼」というのは中国では死者の霊魂
という意味もあります。③は最近、主張する人が多くなってきました。
『三国志』で他に「鬼道」という言葉は、
五斗米道(初期の教団道教)の指導者であった張魯の評伝で出てきますので、
鬼道が道教のことを指しているという意見も、十分根拠はあると思います。
ここからは前回同様Q&Aでいきます。

Q:三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった銅鏡100枚なのですか。

A;そうは思いません。1997年に発掘調査された黒塚古墳では、
画文帯神獣鏡が被葬者の頭のところに1枚置かれ、三角縁神獣鏡32枚は、
壁と棺のわずかな間に立てられていました。このあつかいの違いから、
三角縁神獣鏡の一世代前の鏡である画文帯神獣鏡のほうが、
卑弥呼の鏡にふさわしいと考えます。画文帯神獣鏡はやはり近畿地方で多く出土し、
図像も三角縁神獣鏡と多くの共通点があります。

Q:三角縁神獣鏡は中国製ですか、国産ですか?

A;昔は三角縁神獣鏡のうちでも初期の中国鏡(舶載鏡)と、
後期の国産鏡(仿製鏡)に分ける意見があったんですが、最近の研究から、
全部が中国製か全部が国産であるのではないかという見解が出てきました。
自分としては、卑弥呼の遣使後に中国から日本に渡ってきた鏡作家が、
日本国内で造ったものということもありえるのかなと思っています。
ただし、もし三角縁神獣鏡が国産であったとしても、
その配布の中心が近畿地方であることに変わりはないので、
それによって畿内説が不利になるとは考えていません。
 
Q:卑弥呼の鬼道とは何ですか?

A;これもずっと迷っていたんですが、最近は初期の道教だったのではないかと
考えるようになってきました。上で出てきた画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も、
道教的な図像を用い、神仙世界的な銘文が刻まれています。
そういう鏡が当時の人々に好まれ、広い範囲に配布されていたことには、
大きな意味があると思うのです。

あと、オカルトブログらしく最後に一つトンデモをつけ加えさせてください。
画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡に見られる西王母はじつは卑弥呼を表し、
また東王父は卑弥呼を助けて政治を行った男弟を表しているのではないか、
ということです。これはもちろん、
卑弥呼らをモデルにして中国で鏡が造られたということではなく、
最初からあった鏡の図像が、倭国の政治形態によくあてはまっていたため、
好んで用いられたのではないかと考えるということです。
ま、最初に書いたようにトンデモなので、
あまり真面目に受け取られても困りますが。

この中に卑弥呼がいるのかもしれませんよ(笑)