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今回はまた日本史のお題です。みなさんが興味を持たれるか
わかりませんが、やや専門的な内容になりますので、
この方面に関心のない方はスルーされてください。さて、
埼玉稲荷山古墳は埼玉県行田市にある前方後円墳で、
埼玉古墳群を構成するうちの一つです。

墳丘長120m、高さ約12m。埼玉県第2位の大型
前方後円墳であり、造営年代は、古墳時代後期の5世紀後半
と考えられています。古墳時代後期とありますが、
関東地方には古墳の造営は遅れて入ってきたので、
この地域における最盛期と言っていいかと思います。

さて、この稲荷山古墳ですが、稲荷山古墳出土鉄剣または
「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも呼ばれる鉄剣が
出土していることで知られています。これ、日本古代史の解明に
大きな役割を果たしたものなんですね。

埼玉稲荷山古墳 埋葬の主体部は別にあると見られている
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鉄剣そのものは1968年の発掘で発見されたんですが、
金象嵌があるとわかったのは、1978年の保存処理のための
X線撮影によってです。剣の表裏に115文字の漢字が金象嵌で
表されていることが判明しました。これは中国や朝鮮の
剣の一般的な銘文よりも字数が多いと言えます。

全文は「(表)辛亥の年七月中 記す ヲワケの臣 上祖 
名はオホヒコ その児 タカリのスクネ 
その児 名はテヨカリワケ その児 名はタカヒシワケ 
その児 名はタサキワケ その児名はハテヒ
(裏)その児 名はカサヒヨ その児 名はヲワケの臣

世々 杖刀人の首となり、奉事し来り今に至る 
ワカタケル大王の寺 シキの宮に在る時 吾 天下を左治し 
此の百練の利刀を作らしめ 吾が奉事の根原を記す也」
(人名の読み方には諸説あります)
これを見て、みなさんはどう思われたでしょうか。

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ヲワケの臣というのが剣の持ち主であり、被葬者なんですが、
その先祖が、オホヒコ(大彦?)から始まって、ずらずらっと
7代にわたって列記されています。この時代の人が自分の先祖
というか、ルーツをひじょうに大切にしてきたことがわかります。

自分はこれを見て、『旧約聖書』の「アブラハムはイサクをもうけ、
イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを・・・」
という系図を思い出しました。よく似た感覚ですよね。
やはり、先祖があって、その流れで自分があるということが
意識されているんだと思います。

暴君であったとされる雄略天皇
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さて、「ワカタケル(獲加多支鹵)大王」とは、『日本書紀』に
みる、大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代
雄略天皇であるというのが定説です。ヲワケの臣はこの偉大な
大王に仕えて政治を助け、杖刀人(という武官?)のトップと
なったことが誇らしげに記されています。

この「ワカタケル=雄略天皇」に反対しているのは、古代史家
古田武彦氏の研究グループなどです。古田武彦氏は多元史観をとり、
古代の列島のあちこちに王朝があり、その中でも大きかった
九州王朝が663年の白村江の戦いで滅び、九州王朝の歴史だった
ものが大和朝廷に盗まれた・・・といった説を唱えています。

榛名山
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ですが、その根拠は希薄で、史学界では受け入れられていません。
さて、銘文の冒頭、「辛亥の年七月中」とあり、これは西暦で
いつのことなのか。辛亥は中国でつくられた干支によって
年代を記したもので、60年で一巡りします。この場合、
471年が有力ですが、一部に531年説もあります。

ここで、理化学的年代のほうから、面白い成果が出されてるんです。
群馬県にある榛名山は、今から1500年ほど前に大きな噴火を
2回起こし、関東一円に火山灰をまき散らしています。
この噴火をFA(1回目)とFP(2回目)と言います。

測定試料となった埋木
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群馬大学教育学部 地学教室では、渋川市内の大規模寺院建設地
から見つかった複数本の古い倒木を調査し、年輪を5輪づつ
切り出して、ひとつ置きに測定試料とし、AMSシステムを
用いて放射性炭素含有量を測定しました。で、得られた測定値
すべてを使ってウィグルマッチングしました。

ウィグルマッチングとは、測定した年代値を暦年較正曲線
と統計的に比較することですが、くわしい説明は煩雑になるので
ここではしません。で、その結果、FA噴火は495年前後という数値が
出たんです。稲荷山古墳出土の須恵器は、FA噴火時の火山灰に
覆われており、(FPは520年頃)つまり辛亥年は471年。

ウィグルマッチング
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さてさて、ここまでの内容をどれだけの方に読んでいただけた
でしょうか。『日本書紀』の古い時代の記述は、それだけでは
史実かどうかの判別がつかないものが多いんですよね。
ですが、ワカタケル大王、つまり雄略天皇の実在は、これで
実証されたとみていいのではないかと自分は考えます。

また、『宋書』にある、476年に中国に遣いを送った「倭王武」が、
雄略天皇である可能性が高まったと言えるかもしれません。
以前、「記紀と考古学」という記事を書きましたが、文献史学と
考古学は日本史の両輪なんですね。特に古い時代については、
どちらか一方だけでは理解が難しいと思います。では、このへんで。

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