今日は時間がなく、地獄についてのわりと軽目のお話です。
ただし、キリスト教などにまで踏み込むと長くなってしまいますので、
日本の話を中心にしていきたいと思います。
さて、今の日本人というのは地獄が怖いでしょうか?

これは自分的にけっこう疑問に思っているところです。
うちの父親の話だと、子供の頃は「嘘をつくと閻魔様の前で舌を抜かれる」
と親に言われたそうですし、お寺で年に一度、地獄絵の開帳があり、
そこで「悪いことをすれば地獄に堕ちる」などの説法もあったそうで、

今も行われているところもあるでしょうが、
都会ではあまりそういう話は聞かなくなりました。これは一つには
仏教界の、お釈迦様の説いた本来の仏教に戻ろうとする風潮と
関連があるのかもしれません。もともとインドの原初仏教には、

小野篁
いうjっhg

地獄という概念はなかったと思われます。
日本で地獄のイメージができあがったのはそう古いことでは
ないようです。極楽往生という考え方はありましたが、
地獄という概念がはっきり出てくるのは、平安時代頃からでしょうか。

たしかに「悪いことをすれば地獄へ堕ちる」というのは、
民衆を教化するためには効果的であったと思われます。
「生前○○をしたものは針の山を登らされる」とかですね。しかし一方、
仏教が戒律で禁じている殺生を生業とする人々に対して、

差別意識が生まれてしまったという面もあると思います。
蛇捕りを職業としている猟師の子どもが鱗を持って生まれてきたとか、
そういう話が中世の文献などに見られるようになります。
さて、地獄といえば、そこを支配するのが閻魔大王ですが、
仏教よりも古くからあるインドの古代思想由来のもののようです。



それが中国を経由して道教の影響を受け、日本に伝わってきました。
ですから、日本にある閻魔大王像は、
中国の官吏のような装束を身につけています。また、日本では
閻魔大王は地蔵菩薩の化身であるという話も加わりました。

それと、面白いのは閻魔大王というのは個人名ではなく、
一つの役職と考えられていたことで、任期があって交代で
務めているという考えが、唐の時代頃にはできていたようです。
優秀・清廉な官吏と考えられていた人物が、死後、あるいは
存命中にも地獄へ召喚され、閻魔大王の役職に任せられるわけです。

日本でも、閻魔大王そのものではありませんが、
地獄の閻魔庁の官吏となって仕事していたとされる人物がいます。
ご存知の方も多いでしょうが、9世紀の小野篁(たかむら)という人です。
Wikiには、「その反骨精神から野狂とも称された」と出ていますが、

ええrっt

遣唐使に任ぜられたものの、乗船を拒否した上に、
時の朝廷を批判する漢詩をつくって隠岐に島流しの刑にあっています。
このときの歌が、百人一首に採られている有名な、
「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」ですね。

さて、篁と地獄の話はこんな内容です。
「篁は学生の頃、罪を犯して罰をうけることになったが、
藤原良相という当時の宰相がかばってくれたため、軽い処罰ですんだ。
数年後、良相は重病となり床に伏せっていると、
使が来て地獄に連れていかれた。いよいよ罪を定められる時、

ずらりと並んだ冥官の中に篁がいることに気がついた。驚いていると
篁は目配せをし、閻魔大王に「この方は、正直で人の為になる方です。
今度の罪は、私に免じて許していただきたい」と申し出た。閻魔大王は
「それは本来難しい事だが、篁がそう言うなら許してやろう」と答え、
そこで気がつくと、自分の布団の中に戻っていた。

やがて病気の癒えた良相が参内して篁に会い、このときの話を出すと、
篁は「以前のお礼をしただけです。 ただしこの事は誰にも言わないでください」
と平然と答え、良相は「篁はただの人ではない、閻魔王の官吏なのだ」
と知っていよいよ恐れ、「人は正しくあらねばならない」と、
会う人ごとに説いて回ったという。」(『今昔物語』などより)



篁が座っていた位置は、冥府の第二席であったという話もあり、
かなり高い地位にいたようです。昼に朝廷で政務をとった後、六道珍皇寺の
境内にある黄泉がえりの井戸から地獄に入り、冥府で二刻ほど仕事し、
嵯峨の清涼寺横、薬師寺境内の井戸からこの世に戻ったと伝えられています。

六道珍皇寺は、京都市東山区にある臨済宗のお寺で、黄泉がえりの井戸も
現存しています。もちろん、この逸話は史実ではないでしょうが、
篁=冥府の官説 は室町時代頃までには定着しているようです。
陰陽師の安倍晴明ほどではないにしても、
篁も現代のいろいろなフィクション作品で取り上げられていますね。

六道珍皇寺『黄泉がえり之井』


さてさて、六道(ろくどう りくどう)というのは、
「天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道」の6つを指しています。
それぞれについての解説はしませんが、これらはすべて、
成仏していない者の姿とされます。天道には天人が住み、
寿命は長く、自由に空を飛べるなど楽しく一生を過ごすんですが、

仏教に出会ってはいないため、最終的な解脱はできない存在です。
よく天の羽衣などと言いますが、これは天人の着るものを指してのことです。
現代の仏教では、この六道というのは、そういう場所があるわけではなく、
その人が今置かれている心の在りようを指す、と説かれるように
なってきています。修羅道にいる人間は、つねに争いの中に身を置き、

怒りに身をまかせ、相手を倒すことだけを考えているような状態。
餓鬼道にある人間は、あれも欲しい、これも欲しいと自分の欲望に
溺れている状態。ですから、地獄道もまた、生きた人間の心のうちに
あるものだと考えてもいいのかもしれません。罪を犯し、
それによってつらい責め苦を受けている状態ということでしょうか。

では、このへんで。

閻魔大王