今回はこういうお題でいきます。人身御供(ひとみごくう)をWikiで引くと、
「人間を神への生贄とすること。人身供犠(じんしんくぎ)とも」

と出てきます。関連した項目としては、人柱、殉葬などがあるでしょう。
これらの区別はなかなか難しいですが、少し考察してみたいと思います。

人身御供は、この言葉を聞いて、岩見重太郎の猿神(狒々ヒヒ)退治
を思い浮かべる人が多いでしょうが、
山奥に巨大な猿がいて、里村に娘の生贄を要求した・・・さすがに、
本当にそんなことがあったとは思えないですよね。もしあったとしたら、

ヒヒではなく人、野武士集団などのようなものだったかもしれません。
ちなみに「白羽の矢が立つ」という慣用句は、
この人身御供の話から来ているようです。望みの娘が
いる家の軒に、いつの間にか白い羽根の矢が突き立っているという。

人身御供

アニミズム(素朴な多神教)があった地域には、
この人身御供の伝承は多かれ少なかれ存在します。台風や海の荒れ、
川の氾濫を防ぐ、あるいはその年の豊作を祈る、
という目的で人を生贄に捧げる風習ということですね。

一神教では、獣ならともかく人間の生贄を要求するのは邪神でしょう 。
『日本書紀』の仁徳天皇紀に、大阪の治水工事の際、
難工事の場所が2ヶ所あり、天皇の夢のお告げに、武蔵の国出身の男と、
河内出身の男をそれぞれ河神の生贄に捧げるとよいと出たため、

武蔵の男は泣く泣く川に流されたが、
河内の男は「もし本当に河の神が自分の命を望むなら、
このヒサゴを沈めてみせよ」そう言って瓢箪を投げ込むと、
瓢箪は沈むことなく流れていき男は助かった、と出てきます。

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この逸話が本当かどうかわかりませんが、この内容から、
人身御供には、実際に人を使う場合と、人の身代わりとなる
形代(かたしろ)を使う場合があった、と読み解くむきもあるようです。
ただし、人が実際に生贄とされたと見られる発掘事例は

ほとんどありませんが、人の代わりとなる土器などを
捧げたような跡はそれなりに発見されています。
また、上記の事例は治水工事の際の話ですので、
人柱と言ってよいかとも思います。

人身御供の中でも、人柱と言えば工事のイメージが強いですよね。
伝承でも、城の石垣を築いたり、橋桁を埋める際に立てられることが
多いようです。これは「柱」が建築用語であるとともに、
神様を数えるときに「一柱、二柱」とすることとも関連があるんでしょう。

キャプチャ

藤原京跡から出土した木簡に、表に「急々如律令」と書かれたものがあり、
これは呪文の言葉ですので、呪符木簡と言われています。
裏には方角をつかさどる神の名とともに、2人の婢の名が
書かれており、一人の名は判読できなかったんですが、

もう一人は、「麻佐女 生廿九黒色」と読めました。
この29歳のアサメはどうやら人柱になったようです。
黒色というのは肌が黒いということでしょうか。
陰陽五行説では、黒は水、女は土を表しますので、

この2人の女性は、水で土が流されないようにする意味があった
のかもしれません。ただ、この木簡は上下に縄で縛ったような跡があり、
もしかしたら、実際の人間の代わりとして、
この木簡が橋桁に縛りつけられていた可能性も指摘されています。

呪符木簡


人柱の話で最も有名なのは、前にも少し書きましたが、
江戸城(皇居)伏見櫓が、関東大震災で破損した際、棺もない状態で
計16体の人骨が発見され、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられていた
というものです。その状況から、「すわ人柱か」という騒ぎになりましたが、

工事で事故死した人を埋葬したものだとか、
古い墓地の跡だという説も出て論争になり、いまだに決着がついていません。
ただ、その後も同様の遺体が5体発見され、どうも人柱にしては
数が多すぎる気がします。墓地説が正しいのではないでしょうか。

ともかく、人柱伝承は各所にあるものの、
実際の証拠が発見された事例はごくわずかなんですね。
もっとも川に流されたのでは、見つかるはずもないんですが。

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さてさて、最後に殉葬について。これは江戸時代初期に多くあった、
主君の後を追う殉死、いわゆる追い腹とは違います。貴人の死に際して、
意に反して殺された人ということです。神への生贄とは違いますが、
偉大な王は、神に近い存在だったということでしょう。

『日本書紀』の垂仁紀に、天皇の弟が死んだ際、仕えていた人を
古墳上に生きたまま埋めた。数日しても泣きわめいていたが、
やがて死んで犬や鳥に食われた。これを酷いことと考えた天皇は、
皇后の死にあたって殉葬をやめ、その代わりに埴輪を立てた、
と出てきています。

 

生贄にされたとみられる子ども



ただ、この話が信じがたいのは、埴輪は垂仁天皇以前からあったことと、
古墳の発掘で、明らかな殉葬とわかる事例が一つもないことです。
邪馬台国の女王卑弥呼の死に際して、百人の奴婢を殉葬したと
『三国志』に出ていて、もしそういう事例が発見されたなら、

そこが卑弥呼の墓なのかもしれませんが、
考古学的には、5世紀頃に馬を殉葬した跡は見つかっていても、
人を無理に埋めたとわかる、はっきりした例は現在のところ
確認されていないんですね。では、今回はこのへんで。

青森県 堰神社『堰八太郎左衛門の人柱』