悪魔への生贄

 

今回はこういうお題でいきます。さて、さっそく本題に入りますが、
みなさんはラ・ヴォワザンの名前を聞いたことがありますでしょうか。
本名はカトリーヌ・モンヴォワザン。この人、フランス史上に名を残す
大悪人なんですが、日本ではあまり知られてないんですね。

ときはフランス革命前の17世紀、ルイ14世の治世。パリでのことです。
ラ・ヴォワザンは宝石商の妻でしたが、その店には多くの上流階級の貴族が
出入りしていました。この時代、毒殺がたいへん流行しており、
また悪魔主義も盛んでした。どのくらい毒殺が流行していたかというと、
当時のパリ警察署長もその妻に毒殺されているくらいなんです。

さて、ラ・ヴォワザンですが、貴族ではありませんでしたが、占いが
得意で、それによって上流階級の社交場に出入りしていました。
しかし裏では、毒薬の販売や、媚薬や堕胎剤の製造、悪魔主義の

黒ミサなどを行っていたんです。

 

ラ・ヴォワザン



そこでは人間の乳児が生贄として捧げられていたようですが、その数は
はっきりとわかっていません。ある事情で、事件の記錄はすべて焼き捨て
られてしまったからです。

事件が発覚したのは、フランスのカトリック教会の司祭からです。
カトリックにおいては告解という制度があります。教会の小部屋において
訪れた信者が司祭に自分の罪を告白し、許しをこうというものであり、
ここで知りえた秘密は守られなければなりません。

ところが、ある神父が、おそれながらと警察に訴え出たのです。最近、
自分の家族や知人を毒殺してしまったという告解があまりに多く、
これはただごとではないと感じたからです。
そこで秘密裏に捜査が行われ、たくさんの毒薬販売者、堕胎業者が逮捕
されましたが、これらの人物にはすべて共通の知人がいました。
それがラ・ヴォワザンであったんです。

 

若い頃のラ・ヴォワザン



1679年、ある女占い師が毒殺商売の罪状で逮捕され、彼女の自白により
ヴォワザンもまた逮捕されました。彼女の豪邸で秘かに行われていた

数々の悪事が明らかになり、壮絶な拷問の末、彼女は自白し、

国内のかなりの著名人たちがヴォワザンの顧客であることが判明したんです。

ルイ14世は毒薬事件を懸念し、特別委員会を組織して調査と裁判の任に当たらせ
ました。この時代のフランスでは、毒殺事件に対応するため火刑裁判所が設置されて
いましたが、これは、犯人と断定された者は即刻火刑に処される国王直轄の

 

機関でした。1680年、ここで最初に火刑となった者がヴォワザンでした。
そのときの年齢は40歳。この委員会が手がけた件数は400件以上に

のぼったとされますが、すべてが調査されたわけではありません。

処刑にあたってヴォワザンは、公衆の面前での自らの罪の白状と、

神と王に対しての謝罪を命じられましたが、これを断固として断った

とされます。自白を撤回することも一切せず、堂々たる悪女ぶりでした。

書簡作家として知られるセヴィニエ侯爵夫人は、その年に

書き記した書簡の中で、その彼女の態度への感嘆を述べていますので、
実際にあったことだった可能性が高いでしょう。

 

魔女の火刑



このあたりは難しい話なんですが、当時のヨーロッパにおいては、貴族などの
上流階級の人々と、一般庶民では大きな身分の格差がありました。
金持ちの商人などは、卑しい成り上がり者として見られていたんです。

そこで庶民が王侯貴族に取り入るには、何らかの特殊技能が必要でした。医術、
占星術、錬金術・・・前に書いたカリオストロ伯爵などもその一人でしたし、
このラ・ヴォワザンもまたそうだったんです。ですから、彼女の悪事は庶民から
浮かび上がろうとするためのもので、まったく悪びれるところはなかったんですね。

また彼女は、悪魔を崇拝するための黒ミサを主催し、それは全裸で横たわる女性の
腹部を祭壇にして行われました。そこに聖体を乗せ、司祭が悪魔に捧げる
言葉を唱え、やがてミサが最高潮に達すると、生きた赤ん坊の喉を切って
血を絞りとって女性の身体に注ぎます。そして女性はその血を全身に浴びながら
願い事を唱えるるんです。この時代はたいへん人の命が軽んじられていたんですね。

 

黒ミサ



なぜ事件の全容が解明されなかったかというと、ヴォワザンの死後、彼女の娘が、
フランス王ルイ14世の愛人であるモンテスパン侯爵夫人フランソワーズまでもが
ヴォワザンの店を訪れていたことが判明したからです。

さてさて、これらの件での醜聞を恐れたルイ14世は、一連の毒殺事件の捜査の
中断を命じ、さらに火刑裁判所を閉鎖させ、裁判調書などあらゆる証拠書類も
焼却させました。これにより、一連の毒殺事件の真相や顧客たちの秘密は
闇に葬り去られたんです。ただ、このような上流階級の乱れは、やがて
最初の市民革命であるフランス革命へとつながっていきます。では、このへんで。

 

当時の水責めの拷問