zbzbz (1)


今回はこういうお題でいきます。悪魔学の一環です。さて、
日本神話、つまり神道では、絶対悪と呼べるような存在の神は
いないというのが定説になっています。それから、
仏教では悪魔という言葉は使わないわけではありませんが、
神道では悪魔とは言いませんよね。

あえて表現すれば、悪神、邪神などでしょうか。では、
なぜ日本神話には絶対悪的な神は登場しないのか?
そのあたりのことを考察していきたいと思いますが、
これは自分が独自に考えた内容ですので、納得できないと
思われる方もいることと思います。

その前に、世界の宗教をざっとみていきますと、善悪二元論的な
ものがあります。古代アーリア人によって信仰されていた
ゾロアスター教などが典型的です。神官ゾロアスター
(ザラスシュトラ)が創始したとされますが、
ゾロアスターが、いつの時代の人なのかははっきりしません。

ゾロアスター
zbzbz (3)

ちなみに、日本では「ツァラトゥストラ」という名前で呼ばれる
ことが多いですよね。これはペルシア語をドイツ語読みしたもので、
ニーチェの著作、『ツァラトゥストラはかく語りき』
で知られるようになりました。ここでニーチェは、
ゾロアスターの言葉に仮託して道徳を語っています。

ゾロアスター教で、善なる光の神とされるのがアフラ・マズダー。
それに対抗する絶対悪の闇の神がアンラ・マンユ(アーリマン)です。
両者の実力は拮抗し、つねに争いを続けていますが、最終的には
善の勝利に終わるとされます。ゾロアスター教の信者は、光の神に
味方するために火を焚くので、拝火教とも呼ばれました。

続いて、キリスト教などの一神教。ユダヤ教、キリスト教、
イスラム教の悪魔は、以前記事に書いたように唯一神の創造物です。
神は天使に自由意志を与えたため、中には神に反逆して
天から堕とされ、悪魔となるものが出てきました。ですが、
最終戦争での神の勝利は揺るぎません。

素戔嗚命
zbzbz (2)

では、日本神話で悪神と言える神はほんとうにいないのか?
素戔嗚命はどうでしょうか。高天原で大暴れをし、姉の天照大神の
機屋に皮を剥いだ馬を投げ込んだりして、天照大神は天岩戸に
隠れてしまいます。ですが一方で、素戔嗚命は八岐大蛇を退治して
生贄の少女を助けたりもしています。

禍津日神(まがつひのかみ)はどうでしょう。黄泉国から帰った
伊弉諾神が禊を行った際に生まれた神で、災厄を司るとされます。
ただ、日本神話の場合、善いことでも悪いことでも、必ず
それを担当する神がいます。禍津日神は、後に、この神を
祀ることで災厄から逃れられると考えられるようになり、

禍津日社
zbzbz (4)

厄除けの守護神として信仰されるんですね。じゃあ、疫病神はどうか。
これは基本的に渡来神と考えられています。大陸から来た神。
日本で疫病が流行るのは、大陸からの渡来人が来た場合で、
遣唐使の帰国後などには疫病の大流行がありました。

さて、自分は、日本神話に絶対悪の神が出てこない理由は大きく
2つあると考えています。まずその一つめ、神道の神は多面性を
持っていることです。一つの神には、荒魂(あらみたま)と
和魂(にぎみたま)があると考えられました。

疫病神
zbzbz (7)

荒魂は、その神の荒々しい側面、荒ぶる魂であり、勇気や豪胆、
ときには残忍な性質を表し、和魂は、同じ神の優しく平和的な
側面で、仁愛、謙遜などを表しています。このことは、
上記した素戔嗚命の逸話を考えればわかりやすいでしょう。

例えば現代の話で、残忍無比な犯罪者がいたとします。
でも、そういう人物でも、自分の子どもを可愛がったり、母の日に
贈り物をしたり、何かしら心の優しい面はあっただろうと思います。
新井白石は『古史通』の中で「神は人なり」と看破しています。古代の
日本人は、悪だけを行う神の存在を認めなかったということでしょう。

伊弉諾神の禊池
zbzbz (5)

もう一つは、罪と罰の概念が諸外国と異なっていたこと。
天津罪、国津罪という分類がありますが、現代の罪の概念とは
まったく違うものです。詳しくは、Wikiなどを参照してもらえば
いいんですが、基本的に天津罪は、田に水を引くための溝を
埋めるなど、水稲耕作を妨げる行為。

また国津罪は、近親相姦や膚が白くなる病気(ハンセン病か?)
などのことで、現代の目から見れば病気が罪になるとはひどい話
なんですが、穢れた行為、気味の悪い見た目が罪とされたんですね。
で、大切なのは、穢れは祓い清めることができるという点です。

祝詞にみる天津罪
zbzbz (8)

日本神話には、前述の伊弉諾神を始めとして、何度も禊の
記述が出てきます。穢れとは、忌まわしく思われる不浄な状態。
死・疫病・性交・血・糞尿などによって生じ、共同体に異変をもたらすと
信じられ、禊を行って清めなくてはならないとされました。

さてさて、もちろん穢れはたんなる表面的な汚れのことだけではなく、
「気枯れ」に通じ、物の生命力が失われた状態をも指します。
ですから、祭などの儀式で気を回復する必要があったわけです。
こう考えると、神道がどのような形で成立してきたかが
なんとなく見えるような気もしますね。では、今回はこのへんで。

zbzbz (6)