※ ちょっと毛色の変わった話です。

 

ヨーロッパの各都市はふつうの日本人が考えているよりずっと高緯度である。
例えばフランスの首都パリの緯度は、北海道の最北端、稚内よりも
高いと言えば、驚かれる方もおられるだろう。だから、パリの
夏は日が長く、夜の9時近くまで暗くならない。このように、われわれ
日本人が考えているのと世界はだいぶ違っている。
私は、皮革製品の小物を扱う個人輸入をしている。財布、時計のバンド、
アクセサリー類などだが、その仕事柄、輸入先を探してヨーロッパを巡り歩く
ことが多い。そうして見つけたのが、東欧のとある町。人口数十万の小都市
なのだが、じつにいい革製品を作っている。聞いた話では16世紀頃から
この町の特産品であるようだ。これを輸入すれば小金持ち相手の格好の

商売になるだろうと考えたものの、その町に つてはまったくなかった。

それでも、ままよとばかりに渡欧した。商売なのだし、こちらは客である。
行ってみればなんとかなるだろうと考えたのだ。その町はこじんまりと
していて、建物はみな石造りで古く、長い歴史を感じさせた。日本の
ようにコンビニなどという便利なものはなく、道路は石畳で、曲がり角から
いきなり馬車が現れたとしても違和感は感じなかっただろう。さすがに
町の特産であるだけに、革製品を加工している店は多かった。だから私が
そこへ滞在しての一日目は、それらの店をのぞいて回ることで費やされた。
頑固そうな老職人が手作業をしているところが多かったが、その一人と話が
はずみ、私が来欧した目的を知ると、その周辺の革製品を一手に集約している
人物を紹介してくれると言った。これはありがたかった。
一般に、ヨーロッパの古い小都市は、街の中心に広場があり、そこには

噴水や彫像、そして時計台があることが多い。そして時計台の多くには
町の人に時刻を知らせるために定時に鐘が鳴るシステムが組み込まれている。
その町もご多分にもれず、町の中央には四面に文字盤がついた時計台があり、
時報の鐘が鳴ると同時にゼンマイ仕掛けで動き出す自動人形が付随している。
その町の時計台は、それほど高さはないが、他に高い建物がないせいで、
町のどこからでも見えるようになっており、そこにはやはり人形がしつらえ
られていた。その人形は、時計台の周りを走るように動き、若い女性が
仮面に黒マントの人物に追いかけられているというものであった。
で、その女性の人形は明るい金色の髪をしていて、はっとするほど美しかった。
また、それを追いかけている怪人は、狼に見える青い毛のマスクをつけていた。
下手な英語で、通りがかった町の人に由来を尋ねると、それは18世紀頃に
 
つくられたものだということだった。やはり古い。けれども手入れがよいせいか
ほとんど汚れは感じられなかった。革職人に紹介された人物は

侯爵と呼ばれていた。その国では貴族制度は近代になって

廃止されているが、この呼び名はその頃の名残をとどめているのかもしれない。

渡欧して4日目、その侯爵の代理人という人物と食事することになった。

町の広場に面したレストランで、時計台のすぐ近くだ。食事は肉料理中心で

美味であり、また革製品と並んでその町の特産であるワインも十分に

満足できるものであった。代理人は意外に日本の事情に詳しく、私の会社との
取り引きは正直ありがたいと言った。革製品の卸し先は先細りで、町では
廃業する職人が増えているということだったのだ。それ以外にも話ははずみ、
ヨーロッパは今、どこの国でもアフリカからの移民が増えて治安が悪くなって


いるという愚痴を聞かされた。そうして私はしたたかにワインを飲み、
かなりいい気分で酔っ払った。10時から始めた食事は終わりかけた頃には
もう12時近くになっていた。私が食後のコーヒーを飲み終え、
その晩の礼を言って席を立とうとするのを、代理人が引き止め、
「じつは侯爵がこの近くまでこられていて、商談が成立するようだったら
この後、お目にかかりたいと言っています」と告げた。私はもうホテルに戻って
休みたかったが、この機会に話を決めてしまおうとも思った。それで
「こんな時間にどこで?」と聞くと、代理人は「じつはもう外に来られています。
そういうことなら、この食事に参加すればよかったのにと思うかもしれませんが、
侯爵には人前に出られない事情があるのです」と謎めいたことを言った。
代理人にうながされ、席を立って店から出ると、外は闇が濃くなっていた。


そして、私たちが広場の中央に出ると、噴水の陰から一人の人物が
歩み出てきた。それが侯爵だったのだが、顔を見て驚いた。濃い青色の毛の
仮面をつけていたのだ。侯爵は手で合図をして代理人は闇に消え、
私は仮面の人物と2人きりになった。その仮面は、時計台の人形の怪人が
かぶっているものと同じ意匠に見えた。侯爵は「驚かれたでしょう、この仮面。
ですが、これにはわけがあるのです」と流暢な英語で言い、
「皮製品を輸入していただけるとはありがたい。ですが、今夜はまず、
遠い日本から来られた方に、聞いていただきたい話があるのです」と言った。
「何でしょうか?」 「あの時計台の人形をどう思われますか?」
私はその手の工芸は素人だったが「素晴らしい。まるで生きているようです」
と答え、すると侯爵は「そうでしょう。あれは1720年頃、私が職人に


指示してつくらせたものなんです」 まさかと思った。
侯爵が300年も前から生きているはずがない。それとも何かの比喩なのだ
ろうか・・・「なぜ私がこのような仮面をつけているのかもお話しますよ」
侯爵はそう言い、私たちは広場の噴水の池の縁に腰を掛けた。
「あれは・・・この国がまだ王政を敷いていた頃です。ある領主がこの地方を
支配していて、あの頃は領主権が強かったので、好き放題の暮らしぶりでした。

それで、その領主が町のオペラハウスで歌うある若い女を見初めたのです。
ですがね、その女性には恋人がいて、領主がどれほどくどいてもなびいては
こなかったんです」 「・・・それで?」 「でね、この地方の支配者は
自分だと思い上がっていた領主は、ささいな罪をでっちあげてその
恋人を拘束させたのです」 「で?」 「その頃の牢獄は不衛生でね。囚人は


獄死することが多かったんですが、その若者も1ヶ月ほどで亡くなって
しまいました。けっして領主が手にかけたというわけではなかったのに、
町ではそういう噂が広まりました」 「なるほど、それで?」 「美しい

歌姫はその噂を信じて、領主のことを面前でののしりました」 「で?」
「領主は何でも自分の思い通りになると思っていたんでしょうね。カッとして
その歌姫を殴り、歌姫は倒れたときにテーブルに頭を強く打ちつけて亡くなった
んです。・・・領主は後悔しましたが、もうどうにもできない。まあ、死体は
屋敷の広い敷地で焼けば見つかることはないんですが、そこからは酷い話です。
領主は腕のいい職人を呼んで、歌姫の焼け残りの頭蓋骨と灰を混ぜ入れた
人形をつくらせ、時計台も合わせてつくってそこに置いた」 「まさか」 

「ええ、あれがそうなんです」私と侯爵はそろって時計台の人形を


見上げた。でも、その話が本当のこととはとても思えなかった。
これは趣味の悪い冗談で、私を怖がらせようとしてるんだと考えた。
侯爵はそういう私の思惑にはかまわず、マントの袖をたくしあげて時計を
見ると、「そろそろ時間です」と言い、「この話には続きがあるんですよ。
その領主は、神の罰があたったのか、5ヶ月後に流行り病で死にました。
でも、それは罰ではなかったんです。ほんとうの罰は・・・ おお、時間だ」
時計台で午前0時を告げる鐘が鳴り始め、それと同時に、女性の
人形が必死に手足を動かして逃げ出し、仮面の怪人が追いかける・・・
滑らかな、機械仕掛けとは思えない精巧な動き。侯爵はその動きを
鐘が鳴り終わるまでじっと見つめていた。そして人形が動きを
止めると「いや、お恥ずかしい話を聞いたいただきました。日本から


来られたということで、遠い異国でもこのような話があるのか気に

なっていたんです」私はどう答えたらいいかわからず、無言のままだった。
「いや、いいんです。いきなりこんな話を聞かされて驚かれたでしょう。
おわびに、いいものを見せてさしあげましょう。これですよ」
侯爵はそう言い、おもむろに自分の仮面に手をかけてそれを外した。

そして・・・私は見てしまった。見間違いではないと思う。仮面の下の、
顔があるはずのところには・・・何もなかった。ただ、暗黒の虚無が
あるだけ。私の記憶はそこで途切れ、気がついたらさっきの代理人と一緒に

車に乗っていた。もしかしたら、ワインを飲みすぎて見た夢だったのかも

しれないが、あまりに現実感が強かった。ああ、革製品の
輸入は上手くいってる。たいそう評判がいいみたいだが・・・