かか

今回はこういうお題でいきます。神学の問題です。
これねえ、じつに難しい内容を含んでいるんです。
自分も正直、よくわかりません。まあ、問題提起という
ことで読んでいただければいいかと思います。

さて、中世から近世にかけて、ヨーロッパの哲学は、
神の存在は当然の前提として議論が進められることが
多かったんです。ですが、17世紀ころから、神の存在は
絶対なのかという懐疑論が出てき始めます。

その一つとして、「神は全知全能至善であり、悪のない
世界を創造できたはずなのに、現実には悪人がたくさんおり、
善人が虐げられ、自然災害も絶えない。神は悪の原因では
ないのか、神は不正義を放置するのか」という疑義です。
まあねえ、当然、こういう考え方が出てきますよね。

天から堕ちて悪魔になる
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これについて、キリスト教、イスラム教などの一神教では
大きな問題となります。ここで、ドイツの哲学者、数学者の
ゴットフリート・ライプニッツが、神を弁護しようと
したのが弁神論で、神義論ともいいます。

余談ですが、ライプニッツはニュートンとほぼ同時期に
独立して微積分法を発明したんですが、どちらが先か、
また盗作ではないかというゴタゴタが起きて、イギリスと
ヨーロッパ大陸の数学界の仲が長年の間 険悪になったんです。

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さて、上記した疑義ですが、これはキリスト教などの神が
唯一神であるため起きることなんです。ゾロアスター教などの
善悪二神教では、悪人がいるのは悪の神の側について
影響を受けているからだですみますし、多神教であれば、
やはり悪神によるとすることができます。

ですが、一神教ではそれができない。ここでライプニッツは、
だいたい「より高次の善のために、悪の存在を認めている」
といった論を展開します。もちろん、これはあくまでも、
神の存在と全知全能を認めた上での話なんです。

さて、ここで少し話を変えて、この議論には「自由意志」
という問題が大きくからんでくるのはわかりますよね。
神は人間に自由意志を与えたので、自ら望んで悪の側に
つくものもいる。うーん、ここは難しい。たしかに、悪の側の
人間がいなければ、地獄に堕ちる人間がいないことになります。



天国や地獄がないとなれば、キリスト教的には困ります。
また、悪魔の問題もそうです。神は天使たちに自由意志を
与えたから、天使の中で力の強いものは神に反抗するようになり、
天から堕とされて悪魔となるものが出てきた。悪魔は勢力を
増やそうと、人間をさまざまな形で誘惑する・・・

これだと善悪二神教と似たような形になります。さて、
では、『新約聖書』で、イエス・キリストはどう言ってるでしょうか。
「貧しきものは幸いである、富んでいる者が神の国に入るよりは、
ラクダが針の穴を通る方が、もっとやさしい」などと述べて、
貧困や障害などを肯定しているようです。また、



「悪い麦は実ってから刈り取るほうがよい」つまり、悪人は
最終的に地獄に堕ちるからということなんでしょう。また『旧約聖書』
では「ヨブ記」があり、サタンが神のもとを訪れ、典型的な
善人であるヨブの財産を奪い、肉体を苦しめれば、神に向かって
呪うだろうと賭けをもちかける。

その後、友人たちが病床のヨブのところを訪れ、議論が始まります。
友人たちは、ヨブがこれほど苦しむのは、より善く生きてきた
ように見えても、じつは悪を犯していて、その報いを受けて
いるのではないかなどと言いますが、ヨブはもちろん反発します。

ライプニッツとニュートン
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ここも難しいんですよね。もしヨブが自分の罪を認め、もとに戻して
もらうよう祈った場合、利益のための信仰であり、サタンが勝利
してしまうんです。このあたりのことは大変に面白いんですが、
字数がなくなってきたので、興味を持たれた方は検索して
調べてみてください。

さて、結局、ヨブ記での結論は、「神の世界創造の計画は人間の
理解を超えている」といった、ライプニッツと似たものとなります。
この考え方は都合がよすぎるだろ、という気もするんですが、
みなさんはこのあたりのことを、どうお考えになられるでしょうか。



で、ここまでの話で大切なのは、やはり信仰心ということになります。
この世はある意味、試される場であり、どんな苦しい目に
遭っても、戒律を守り、信仰心を失わなければ、死後、
神の国に迎えられる。まあ、どんな宗教も最終的には
信仰心の重要性に落ち着くことが多いんですが。

さてさて、ということで、弁神論についてみてきました。
この後、ヨーロッパの哲学は、だんだんに神学と
離れていくことになります。まあそうですよね。神が存在する
という前提はひじょうに議論を窮屈にしてしまいますから。

では、今回はこのへんで。