こんばんは、私、三村ともうしまして、ある県の小学校で
図工専科の教師をしています。よろしくお願いします。
さっそく話を始めさせていただきます。去年の10月のことです。
私が勤務していた小学校の5年生が、1泊2日の日程で
県北にある少年自然の家で宿泊研修を行ったんです。
私は講師で専科ですから、担任も持っておらず、本来なら
参加する予定はなかったんですが、学年が人手不足ということで
校長先生にたってと頼まれ、同行させていただくことになったんです。
2日目の午前中に写生大会が予定されていたためもあります。
私は県南部の出身で、その施設に行くのは初めてでした。
5年生はA~Cの3クラス、バスで1時間半ほどかかりました。

私は、Cクラスのバスに担任の先生と同乗しました。
学年部以外の先生は、団長である教頭先生、養護教諭、それと
私です。少年自然の家は、有名な高山を擁した山地のふもとの
林の中にあり、あたりの木々は、紅葉の絶頂をむかえる少し前
くらいでした。ああ、この色を出すのは難しそうだ、明日の写生大会は
子どもたちは苦労するだろうな、そう思ったことを記憶しています。
Cクラスのバスは最後尾で到着し、子どもたちが広い玄関で
靴棚に靴をしまっているとき、ロビーに巨大な絵が飾られている
ことに気がつきました。200号の変形版で、2,5m×2mの
大きさがあります。風景画でしたが、構図がひじょうに変わっていて、
山中のダム湖を、山頂あるいはヘリなど、かなりの高さから

見下ろしたも油彩です。真っ青な湖の水、そして山の木々の色、
ちょうどその時期の景色だと思いましたが、異様な迫力がありました。
有名な画家の作なのだろうか、サインは読み取れ、日本人のものでしたが、
その名は記憶の中にありませんでした。しばし立ち止まって絵に
見とれていたら、後ろから「先生、すごい絵ですね」と声がかかりました。
ふり向くと、Aクラスの女子、恵さんでした。その子は、私が出ていた
3クラスの中で美術の才能は一番、春に指導した水彩画は、県の展覧会で
特選になっています。「ええ、驚いた。まるで吸い込まれそうね」
そのとき、何気なくそう言ったことを覚えています。
恵さんは、図工以外の教科もよくできるようでしたが、生まれつき心臓が
悪く、体育はずっと見学していると担任の先生に聞いていました。

2人並んで絵を見ていると、他の子たちはピロティに整列を始めました。
出会いの式というのがあったんです。「ほら、遅れるわよ」
私は恵さんの背中を押し、絵の前から離れたんです。その日の日程は、
まず野外の炊事場で飯盒炊飯、その後、ミニ登山になります。
ミニというのは、山の頂上までは行かず、コルという7合目のところで
引き返すからですが、それでも往復4時間ほどかかり、戻ってきた
子どもたちはへとへとになっていました。これは、夜に子どもたちが
疲れ切って、騒がず寝るよう日程に組み込まれていたんです。
そんなでしたから、体調面の理由で参加できない子もおり、
私は、その子たちと宿舎に残る役割だったんです。登山をしない子は、
全部で8人、少年の家の職員の指導で、木の実や落葉を材料にした

リース作りに取り組みました。恵さんは、私の横に座ってセンスよく
リースを完成させ、それから「先生、ロビーの絵、見に行きませんか」
と言いました。その場を職員の方にまかせ、2人でロビーに出ると、
絵は、日差しが午後のものになったせいか、ダム湖の色がいっそう
黒々として見えました。「なんだかこの絵、怖いです」恵さんが言い、
私もじつはそう思っていたんです。「先生、サインは何と読むんですか」
「K・MURAKAMI でも、先生はそういう名前の画家の人は知らない」
こんなことを話していると、少年の家の所長さんが事務室から出て、

「大きな絵でしょう」と話しかけてこられました。「素晴らしいです。

この画家の方は?」 「ええ、地元出身の方です。村上恵一さん、

学生のときにはこの施設に泊まられたこともあるそうです。

その景色はね、ここから数km奥のほうにあります。子どもたちが
今登っている山頂から描いたものでしょう。ダム湖の下には村が
一つ沈んでるんです。村上さんはそこの出身でした。
何度か中央の展覧会に入賞されてるんですが・・・」 「ですが」
「まだ20代のうちに亡くなられたんです。この絵を寄贈されてから
1年もたたないうち。ですから、これは遺作と言っていいのかもしれません」
「・・・」 何か事情があるような口ぶりでしたが、それ以上のことは
聞けませんでした。登山が終わり、子どもたちは疲れ切って帰って
来まして、ケガ人などはなかったようでした。夕飯は少年の家の
食堂で食べ、クラスごとに時間を区切って入浴し、夜は外で
キャンプファイヤーを囲んでスタンツがありました。

消灯は10時。男子が2階、女子が1階と分かれて6人ほどの
グループで休みます。私はもちろん、女子の班のほうについてましたが、
12時の見回りの頃には、どの部屋の子も寝入ったようでした。
正職員の先生方はこの後も見回りがあるんですが、気を使っていただいて、
私は自分の部屋に下がりました。その夜中のことです。
2時過ぎに目を覚まし、うまく説明できませんが、呼ばれたような
気がしたんです。あの絵にです。部屋を出てロビーに向かうと、
黄色い常夜灯がついた絵の前に、小さな人影が立っていました。
恵さんでした。私が後ろからそっと肩をさわると、恵さんははっとした
ようにふり向き、「あ、先生」と言いました。「この絵、そんなに気に
入ったの? でも、部屋から出ちゃいけない きまりでしょう」

「すみません。何だか名前を呼ばれたような気がして、いつの間にか
ここにいたんです。というか、あのダムの水の中にいたような気もします。
どうやって部屋を出たかも、自分ではよくわからないんです」 
「そう、・・・じつは先生もそうなの」恵さんを部屋まで送り、ベッドに
入ったのを見届けてから私も部屋に戻ったんですが・・・ 
翌朝、大騒ぎになりました。点呼で恵さんがいなかったんです。
はじめのうちは、トイレだろうと高をくくっていた先生方も、
施設中探してどこにもいないとわかると顔を青くしました。施設には
表玄関の他に勝手口、業者用の納入口などもありますが、夜間には
鍵がかかっていて、子どもが一人で出ることができるとは思えませんでした。
少年の家の職員の大部分は帰宅しますが、数人の宿直がいます。

もちろん、窓の鍵を開けて出ることはできますが、いったい何のために・・・
教頭先生を中心に先生方と職員で話し合い、とりあえず外を探して
見つからなければ警察に連絡するということになりました。このとき、
私は前夜、恵さんがロビーに出ていたことを話したんです。朝に見た
ロビーの絵は、前の床が水をこぼしたように濡れていました。
他の子たちにはとりあえず朝食を食べさせて部屋で待機。せっかくの
天気なのに写生大会は中止になってしまったんです。担任の先生が連絡し、
恵さんの両親が施設に来られることになりました。20分ほどさがして
恵さんは見つからず、警察に通報がされました。私は・・・
ふと思いついたことがあって、美術大学時代の恩師である西田先生に
連絡したんです。西田先生はその県では有名な女流の日本画家で、

日展に何度も入選されているものの中央には出ず、県の新聞小説の
挿絵なども描いておられました。すぐに電話に出られたので、
かいつまんで事情を話すと、「すぐにそちらに行きます。少年の家の
所長さんと、学校の校長には私から話しておきますから」
警察がかなりの人数 施設に到着し、私たちから事情を聞いて捜索に
入りました。それと、恵さんのご両親も。まだ30代かと見える
ご夫婦で、それは心配そうな様子でした。少年の家の周囲は林ですが、
近くにはダム湖から流れる川もあります。結局、他の子たちはバスで
家に帰すことになり、私も同乗していったんは学校に戻ることに
なりました。その頃、西田先生が到着されたんです。西田先生は
大きなバッグを重そうに持たれ、私の顔を見ると、

「ひさしぶり、卒業以来かしら。夕方までに もう一度ここにいらっしゃい」
それだけおっしゃられ、所長さんのほうへ歩み寄っていかれました。
それから、バスで学校に着いた子どもたちは集団下校で帰宅し、
私は講師ですのでもう仕事はないんですが、自分の車で折り返し
少年の家に向かったんです。施設の前にはテントが張られ、警察官や
山岳会の人たちが詰めていました。恵さんはまだ見つかっていなかったんです。
ロビーにも校長をはじめたくさんの人がいました。その中で、あの絵の前に
短くブルーシートが広げられてあり、西田先生が脚立にのって何やら
絵に手を加えていたんです。「先生!」 私が声をかけると、西田先生は
「ああ、取り込んでる最中に何をやってるのかと思われてるみたいだけど、
所長の許可を得て、この絵の塗りをはがしてるの。一部分だけど」

たしかに、ダムの水門の反対側、山に近いほうの塗りが溶剤でかなり
落とされ、そこには、四角い木造の建物が描かれてありました。
「これ、ダム湖に沈んだ小学校ね。他のところにも村の中の様子が
描き込んであるんでしょう。その上から藍色の水の色を塗った。
だからすごい深みが絵に出てるのね」 「何のために」私がそう言うと、
西田先生は、「あなたにお願いがあるの。この水入れに、ダム湖から
流れる川の水をくんできてくれない」それは難しいことではなかったですが、
意味がわかりませんでした。ただ、在学中から、いろいろと不思議なことが
西田先生のまわりでは起きていたんです。川までは20分ほど、そこにも
すでに捜索の人たちが来ていました。川原に降りて水をくんでいると、
日が暮れかかって、「夜になると厳しい」そういう声が聞こえてきたんです。

急いで施設に戻ると、絵の小学校と校庭があらわになっていて、私が水入れを
手渡すと、西田先生は「ご苦労さん、その子はもうすぐ戻ってくるから」
と言われ、水入れに絵筆を浸し、絵のその部分に塗りつけたんです。
油絵ですから水は弾くはずなのに、染み込んでいくように思えました。
10分ほどその様子を見ていたんです。そしたら、ロビーにいる全員が
息を飲んだ気配がしました。ふり向くと、ずぶ濡れの女の子が
宿泊棟の通路からよろよろとロビーに入ってくるところでした。
はい、恵さんです。夜寝たときの体育着のままでしたが、大雨に
うたれたみたいに髪の毛から何から濡れていたんです。「恵!」と
大きな声がしました。事務室にいたお母さんです。お母さんは走り出て、
恵さんを抱きしめました。西田先生が私を見てほほえみ、

「ね、戻ってきたでしょう」そうおっしゃいました。でも、どういうこと
なのか、私にはまるでわからなかったんです。ここからは後日談です。
恵さんの体には異常は見られませんでしたが、かなり疲れた様子で、
救急車で病院に行くことになりました。西田先生はお母さんと短く
話しておられましたが、私のほうに来て、並んで絵の前に立ちました。
「恵さんのお母さん、この小学校の最後の卒業生なんだって。
ダム湖に沈んだ」 「・・・・」 「それで、この絵を描いた
村上氏ね、恵さんのお母さんとそこで同級生だったんだそう」
「ええ!?」 「村上氏のことは少し知ってるけど、この絵でわかるように
とても才能のある人でした。でも、残念なことに自殺されてしまったの。
このダム湖で」 このような会話をしたことを覚えています。