こんばんは、私、滝口ともうしまして、主婦をしております。
結婚して6年目、3歳になる娘がいます。
それで、夫は入り婿なんです。はい、滝口の家は代々、子どもは
女が多いんです。男の子も生まれないわけではなかったようですが、
どういうわけか長く生きられず、8歳までの間に病気で亡くなることが
ほとんどだったそうです。ですから家は女系でずっと続いておりまして、
私の父も祖父も婿養子です。家業は呉服の問屋で、番頭だったのを
見込まれ、母と結婚したんです。家は江戸時代の始めころから続く
旧家ですが、呉服の仕事を始めたのは明治からと聞いています。それで・・・
私が子どもの頃から、他の家庭とは少し違った習慣があったんです。
まず、家では雛人形を飾ることはしませんし、桃の節句を祝う

こともないんです。これ、小さい頃はとても残念でした。幼稚園に
通っていたとき、それほど大きなものではありませんでしたが、
園長先生が毎年雛壇を飾ってくれましたし、活動の一つとして
園児が紙雛を作ったりもしました。で、他の子の話を聞くと、
自分の家でも雛飾りがあるっていうし、私も欲しくなって、母に
そう言ったんです。すると母は少し笑って、「ああ、母さんもあなたと
同じ頃はそう思ってたの。でも、この家で飾ることはできないのよ。
ごめんね。そのかわり3日の日は家族でお食事に行きましょう。
そのときに好きなものを買ってあげる」と言いました。
私としては不満もあったんですが、まあ、誕生日が年に
2回あるようなものですよね。まあいいかと思ってたんです。

え? ああ、はい。なぜ家では雛祭りをやらないのか、何度か聞いたことは
あります。でも、教えてはもらえませんでした。それと、私が幼稚園で
作ってきた紙雛も、母に渡すとすぐに仏壇の引き出しにしまわれて、
もう見ることはできなかったんです。それで、私が数え歳で8歳になる
お正月、母に呼ばれて仏壇の前に座らせられました。何かお説教を
されるのかと思ったんですが、そうではなく、和紙に包まれた平たい
ものを渡されたんです。「今日から、これを毎日枕の下に敷いて寝なさい」
と言われて。中は、その場で母が開けて見せてくれたんですが、
黒い中に金色の模様がついた7、8cmの丸い形のもの。
最初はそれが何だかわかりませんでした。はい、持ってきてますので、
今、お見せします。これなんですが、おわかりですよね。

襖の取っ手です。なぜそんなものを枕の下に敷いて寝るのか。当然、
質問しました。そしたら、「お母さんも上手く説明はできないのよ。
でも、これがあれば、どこに連れて行かれても帰ってこれるから」と。
ますます意味がわからなかったですが、母は真剣でしたので、
きっと大事なことだろうと、その日からずっと自分の部屋の枕の下に
入れっぱなしにしていたんです。あと、旅行などで外泊するときも
必ず持参してました。それで、なぜ初め、それが襖の取っ手と
わからなかったかというと、家には、仏間をのぞいて、襖と呼べる
ものがなかったからです。戦後すぐに建てられた古い家なのに。
押し入れはありましたが、明らかに洋風のつくりでした。2階に
ある私の部屋は押し入れすらなく、つくりつけのクローゼットで。

ああ、すみません、長々とわけのわからない話をしてしまって。
それが起きたのは、私が10歳、小学校4年のときでした。
季節は10月で、いつもと変わりない日だったと思います。
夕食を食べ、居間で家族とテレビを見てから自分の部屋で宿題を
済ませて10時ころには寝たんです。それで・・・自分では
夢じゃないと思ってたんですが、やはり夢だったと考えるしかないん
でしょうね。いつもは一度眠りにつくと朝まで起きることはないのに、
その夜は目が覚めたんです。足元のクローゼットのほうで
カリカリという音がしてました。まだいくらも寝ていない、12時前
だろうと思って枕元の目覚ましを見たら、夜中の3時を過ぎてました。
カリ、カリ、カリ・・・何だろう。半身を起こしてそちらを見、

とても驚きました。大きなクローゼットがあるはずの壁に、
襖が2枚並んでいたからです。「え、どういうこと?」ただこのとき、
あんまり怖い気持ちはなかったんですね。その襖を見てると、
なんとなく懐かしい気持ちがしたんです。え、どんな襖だったかって。
ああ、すみません。無地で、暗い部屋でしたが、桃色か橙色に
見えました。で、その向こうからカリカリという音。ベッドから降り、
近づいて、思い切って襖を開けてみたんです。そしたら・・・
上下の2段に分かれてて、上の段には布団がびっしり入ってました。
「え、これ、押し入れ??」そのとき、向こう側が開いて灯りが
差し込んできたんです。逆光ではっっきりしませんでしたが、
人がこちらを のぞき込んでいました。髪が長くて小さい、

はい、女の子だと思いました。年がそのときの私と同じくらいの。
「こっち、こっち」その子が言い、手を差し出したので握ると、
軽く引っ張られ、私は押し入れをはさんだ向こう側に出たんです。
薄暗いせまい部屋で、カビの臭いがしてました。その子・・・
和服を着て髪は肩までのおかっぱ。そこまではいいんですが、
顔が、私とそっくりだったんです。髪型はもちろん違ってましたが、
毎日鏡で見るのと同じ・・・いえ、完全に同じではなかったです。
というのは、その子、眉が剃って整えられ、うっすらとお化粧している
ようにも見えたんです。顔の色も私よりずっと白い。その子は
私そっくりの声で「ねえねえ、お雛様見たい?」と聞いてきたので、
「見たい」と答えました。すると、「じゃ、いこう」そう言って、

私の手を取ったまま、そこの部屋の戸を開け・・・そしたら、
かすかにですが、音楽のような音が聞こえてきました。そのときは
わからなかったですが、三味線の音です。その子はしーっと口の前に
指をあてる仕草をし、長い木の廊下をゆっくり進んでいき、ずらりと
並んだ障子戸のうちの一枚を開けたんです。かなり広い、12畳ほどの
部屋だったと思いますが、その半分ほどを巨大な雛壇が占めていたんです。
何段飾りだったか覚えてませんが、天辺のお内裏様のいる段は
天井近くまできていました。「わあ、すごい!」私がそう言うと、
「いいでしょ。ねえ、私と代わらない。ほんのちょっとでいいから」
そう言ってその子は強く私の手を握り、そしてふっと消えたんです。
「え? え?」それで、私のパジャマがいつのまにか、その子が

着ていた和服になってたんです。「どういうこと?」わけがわからず、
そのときに初めて怖くなってきたんです。その部屋から出ることができず、
目の前にある雛壇を見ていました。人形は現代のものよりは小さめ
でしたが、100体以上はあったと思います。どれもとても
精巧にできていて、顔のしわ一本一本までちゃんとありました。
そのとき背後から「こんなとこでまた油売ってたのか」男の人の
乱暴な声が聞こえ、襟首をつかんでずるずると引っ張られるような形で
最初に入った部屋に投げ込まれたんです。そしてすぐ真っ暗になりました。
体が痛かったですが、手探りであちこち探しました。この向こうは
自分の部屋のはず、そう思ったんですが、どの壁も物が積まれていて、
戸のようなものはなかったんです。もう泣いていたと思います。

そのとき、自分の左手が何かを握りしめていることに気がつきました。
丸い形の固いもの。あ、枕の下に入れてた取っ手だと気がつき、
一番物のない壁にそれを押しあててみたんです。そしたらめり込むような
感触があり、指をかけて引いてみると軽く開いたんです。そちらに出ると、
ドシャンという音とともに、私は自分の部屋のクローゼットから外に
転げ出てました・・・ 翌日、母にそのことを話しましたら、母は
すこし怖い顔になり、「ああ、あなたもやっぱりあの雛飾りを見たのね」
つぶやくようにそう言いました。はい、その後も取っ手は枕の下に敷いて
たんですが、二度とあの夢は見ませんでした。それから月日がたち
私の結婚が決まると、母は「取っ手はもうあなたには用済み。でも、いずれ

生まれるあなたの娘には必要だから。8歳になったら渡しなさい」と。