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今回はこういうお題でいきます。日本史の分野なんですが、
この記事はまあ、面白歴史読み物と考えていただければいいかと
思います。内容に、推測とこじつけが含まれているからです。
さて、何から説明していきましょうかね。

やはり最初は阿修羅についてかな。阿修羅は八部衆(仏教を守護する
8体の闘神)のうちの一体です。バラモン・ヒンドゥー教の神
アスラが仏教に取り込まれたもので、もともとは天界の神でした。
それが天帝である帝釈天と戦い、天界を追われて阿修羅道に生きる
ことになります。阿修羅道は果てしない戦いの世界です。

一般的な阿修羅像
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阿修羅の体は戦いに特化し、三面六臂(頭が3つに腕が6本)と
なっています。それがあるとき、お釈迦様の教えを聞いて
仏教に帰依することになるんですが、もともとが闘神でしたので、
一般的な阿修羅像の3つの顔は、怒りで頬をこわばらせ、

目をむき、牙をつき出し、髪を逆立てた荒々しい姿で表現されます。
また、6本の手には、刀剣や盾、弓矢を持っています。
ところが、日本で最も有名な興福寺の阿修羅像は少し違います。
眉根を寄せた少年のような顔、体も腕も細く、女性的であり
武器類を手にしていません。

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この仏像は日本製と考えられますが、写実的な顔は誰かをモデルに
したものでしょうか。で、この阿修羅像、じつは若き日の孝謙天皇
(後に重祚して称徳天皇)ではないかとする説があるんです。
まずは興福寺の歴史から。もともとは、藤原鎌足の病気平癒を
願って、夫人の鏡大王が山背国山階に建てた山階寺でした。

奈良時代になり、鎌足の子、藤原不比等が、平城遷都に際し、
平城京左京の現在地に移して興福寺と名づけます。以後、興福寺は
藤原氏代々の氏寺として帰依を受けてきました。興福寺には多数の
仏像があることで知られていますが、この阿修羅像を含む一群は、

興福寺の八部衆像 他の仏像はみな鎧を着ており、阿修羅像だけが異質
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初めて王族以外から立てられた、聖武天皇の后である光明皇后が
つくらせ、734年、母親(橘三千代)の一周忌供養のために
興福寺に寄進されたと考えられています。聖武天皇が奈良の
大仏を国家鎮護のために造立したことはよく知られていますが、
その夫人であった光明皇后も仏道に深く帰依しており、

東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられます。で、
この阿修羅像、それまでに見られない特異な表現であり、モデル
となったのは、そのただ一人の子であった(男児は生まれたものの
育たず)阿倍内親王ではないか、という説があるんですね。

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日本の歴史において、天皇に男子の跡継ぎがないのは大変に
危険な状態で、乱がしばしば起きています。阿倍内親王は738年に
立太子して史上唯一の女性皇太子となり、749年、父である
聖武天皇の譲位により、孝謙天皇として即位します。
聖武天皇は756年、病をえて崩御。

孝謙天皇は独身であり、その次の天皇をどうするかの見通しが
立たないことを心配しながら、母の光明皇后は760年に
亡くなります。この後の歴史はみなさんもよくご存知だと思いますが、
光明皇后の危惧のとおり、次々と騒乱が起きることになります。

橘奈良麻呂
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まず、757年、次代天皇に道祖王を押していた橘奈良麻呂が、
孝謙天皇に道祖王を廃されたことでクーデターを計画。しかし
事前に察知され、捕縛されて過酷な拷問を受けます。
道祖王は拷問死。『続日本紀』には首謀者である奈良麻呂の名が
出ていませんが、同じく拷問死、あるいは暗殺されたと考えられます。

この乱をうけ、孝謙天皇は退位し、太上天皇となります。
もめていた次の天皇位には大炊王がつきます。しかし実権は孝謙上皇
が握っていました。この頃、藤原南家の出身である藤原仲麻呂が
勢力を伸ばし、孝謙上皇の寵愛を受けて大納言に昇進し、
上皇から「恵美押勝」の名を賜ります。

藤原仲麻呂
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これが仲麻呂の絶頂期でしたが、760年に光明皇太后が没すると、
孝謙上皇と仲麻呂の関係は微妙になっていきます。その理由の一つが、
病になった孝謙上皇が、自分を看病した道鏡を側に置いて寵愛するように
なったことです。危機感を抱いた仲麻呂は、764年、反乱を計画し、
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が起きます。

琵琶湖の周囲での戦いで仲麻呂は敗北し、家族とともに船で
逃れようとしたところを捕らえられ斬首。一家も皆殺しにされます。
仲麻呂側についていた現天皇である大炊王は淡路島に配流。
翌年に暗殺されたとみられます。これ以後、大炊王は諡号もなく
淡路廃帝と呼ばれ、淳仁天皇の号が贈られたのは明治になってからです。

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あ、もう字数がなくなってきました。この乱の後、孝謙上皇は
ふたたび天皇位に重祚して称徳天皇となり、次の天皇位を道鏡に
譲ろうと画策しますが、宇佐八幡宮の神託により それはかなわず、
770年病没。道鏡はすぐさま失脚し、下野国薬師寺別当として
追放されることになります。

さてさて、この他にも、孝謙=称徳の治世には、不破内親王の呪詛事件
なども起きており、争いが続きました。まさに戦いの中でしか生きられない
阿修羅のような生涯だったわけですが、もし興福寺阿修羅像のモデルが
幼い日の孝謙天皇だったとすれば、因縁めいた話だなあと思います。
母、光明皇后は、そのような生き方を娘に求めたのか?

この後は、次々と皇子、内親王が粛清されていく中、いつも酒を飲んで
日々を過ごすことで、凡庸・暗愚を装って難を逃れていた白壁王が、
光仁天皇として位を継ぎます。すでに62歳になっていました。
では、今回はこのへんで。