今回はこういうお題でいきます。日本史の話ですね。
さて、先日、御霊についての話を書き、そのときに
「日本三大怨霊」のことも出てきました。三大怨霊は
一般的に「崇徳上皇、菅原道真、平将門」なんですが、

将門は関東の人間であり、怨霊になる条件にも当て
はまらないため、朝廷関係で考えると、将門のかわりに、
承久の乱で敗れて隠岐に配流になった後鳥羽上皇か
表題の早良(さわら)親王が入るのが妥当と考えられます。
数々の祟りが言われる強力な大怨霊なんですね。

まずは、ざっとおさらいしてみましょう。ときは8世紀、
桓武天皇の御代です。早良親王は光仁天皇の子、
桓武天皇の同母弟でした。仏門に入ってたんですが、
桓武天皇が即位すると同時に還俗し、皇太弟となりました。
よく早良皇太子と書かれるんですが、正しくは皇太弟。



さて、桓武天皇は政治の刷新を考え、長岡京への遷都に
着手しました。延暦4年(785年)、天皇は都の
造営状況を視察させるため藤原種継を派遣しましたが、
何者かの放った矢にうたれて
翌日に死亡するという事件が起きます。

犯人はすぐに捕らえられ、尋問したところ「首謀者は
大伴家持です。家持は早良親王に事をもちかけ、
人を集めて乱を起こそうといているのです」と自白します。
ただこれ、家持は征東将軍として赴任した先の東北で、
事件の1ヶ月も前に亡くなってるんですよね。

桓武天皇
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このあたり、陰謀で早良皇太子に罪を着せようとしたと
考えられなくはありません。この結果、早良親王は捕らえられ、
寺に幽閉された後、淡路島へ流罪となります。親王は
無実を主張しましたが、護送の途中で餓死してしまいます。

これについて、①病死説、 ②自分から食を断った自殺説、
③桓武天皇がわざと食物を与えず暗殺した説 とがありますが、
どれなのかは はっきりしません。また、親王が種継暗殺に
かかわっていたのかも不明ですが、後世に怨霊の祟りが
言われたことから、冤罪であった可能性が高いでしょう。

また、家持はすでに亡くなっているのに官位を剥奪され、    
庶民に落とされました。早良親王の遺骸は淡路島で葬られ
ましたが、ここから祟りが始まります。まずその3年後、
桓武天皇の妃の藤原旅子が30歳で死亡、翌年に実母の
高野新笠が死亡、さらに翌年、皇后の藤原乙牟漏が死亡。

大伴家持
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その年の夏は大旱魃になり、暮れには天然痘が猛威を
ふるいます。そして実子の安殿皇太子が病気になり、
陰陽師に占わせたところ、「早良親王の祟りである」と
出ます。このため、天皇は「早良親王の罪を許す」と
宣旨しますが、その後も天変地異はやまず、

10年の歳月をかけ、莫大な費用を使った長岡京を造営
途中で放棄し、794年、平安京に遷都することになります。
みなさんが歴史で「鳴くよウグイス平安京」と習った
とおりです。桓武天皇はその後、早良皇太子に崇道天皇と追諱し、
法要を行いますが、暴風雨が続くなど祟りは収まらず、

崇道天皇社
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天皇は亡くなります。いっぽう大伴家持のほうですが、
桓武天皇が崩御した延暦25年(806年)、死後20年ぶりで
恩赦をうけ、名誉回復して従三位に復位されました。
さて、ここからは『万葉集』の話になります。

『万葉集』は日本に現存する最古の和歌集であり、前述の   
大伴家持が編纂に大きく関わっていたと考えられます。
で、成立年代なんですが、家持の死の直前の延暦2年(783年)
ころに完成したというのが定説ですが、自分は疑問があります。

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というのは、『万葉集』という名は平安中期より前の文献には
登場しないんですね。この理由について、「延暦4年の事件で
家持の家財が没収され、その中に家持の歌集があり、それを
加えて本が出され、やがて写本が書かれて有名になって、

平安中期ころから史料にみえるようになった」という説があるんです。
じつは自分はこの説をけっこう支持していて、理由は、
『万葉集』巻末の家持の歌、「新しき 年の始の 初春の
今日降る雪の いや重け吉事(よごと)」からですね。

いちおう訳しますと、「新年、元旦の今日の朝に降る雪のように、
めでたいことが次々と積み重なればよい」という縁起の良いもの。
家持がまだ若い42歳ころの作なんですが、これが巻末に
なっているのは、家持に対する鎮魂の意味もあるのではないかと
考えるからです。

平安京


最も早い時期でも、『万葉集』が世に問われたのは、桓武天皇の死後
家持の名誉が回復されてからでしょう。これ、家持の死後、
1ヶ月もたってから起きた藤原種継暗殺を、前々から計画していた
というのは無理ですよね。ですから、家持も冤罪であった可能性が高い。

さてさて、ということで、怨霊と『万葉集』のお話でした。
早良親王の怨念を畏れた桓武天皇は、淡路島から親王の遺骸を
大和国に移葬していますが、それは桓武天皇が崩御する
1年前のことだったんです。では、今回はこのへんで。