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今回はこういうお題でいきます。さて、『平家物語』は鎌倉時代に

成立した軍記物語で、作者は不詳。
和漢混交の名文で、平家の栄光と没落を描いています。

みなさんは『平家物語』の名シーンと言えば、どこを思い浮かべられ
ますでしょうか。安徳天皇の入水、敦盛と青葉の笛、大原御幸など、
印象深い場面がめじろ押しなんですが、おそらく多くの方は、
那須与一と扇の的のシーンをあげられるんじゃないかと思います。
これは中学の国語の教科書に載ってたことも大きいでしょう。

1185年、屋島の合戦において、平家方の船の上に立てられた
扇の的を、源氏の義経配下の御家人、那須与一が見事に射抜く。
では、これが史実なのかと言われると難しいんですよねえ。
那須与一の名は同時代の史書や日記などには出てきません。
『平家物語』はあくまで「物語」で、脚色されているのが前提です。

補陀洛山寺
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さて、このとき与一は八幡大菩薩に祈り、「もし矢が外れたら、
弓を切り折り、腹を切って、ふたたび人に会うことはない」と
誓っています。与一の心境としては、敵と戦って名誉の討ち死にを
するならともかく、矢を外した恥辱の中で切腹するのは
さぞ嫌だったろうと想像できます。

ここで話を変えて、「補陀落渡海」について。中世において
行われた仏教の捨身行(自分の身を捨てて人々を救う)の一つで、
補陀落(ふだらく)は、サンスクリット語のポータラカの
音訳です。以前少し書きましたが、仏はそれぞれ自分の世界を
持っていて、西方の極楽浄土にいるのが阿弥陀如来。

観音菩薩
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で、南の海の彼方には補陀落浄土があり、観音菩薩が
統べています。この浄土へ、生きたまま船に乗って到達しようと
するのが補陀落渡海ですが、実際には、出口のない渡海船で
海に沈んで死ぬことが前提だったんです。

船の屋形に、僧が30日分の食料とともに乗り込むと、入り口は
板でふさがれ、沖合まで伴走船が曳航した後、潮まかせに
漂流していくわけです。また、僧は死ぬことが必定で、
熊本で行われた例では、溶け沈む泥舟が使われました。

那智勝浦海岸
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宣教師ルイス・デ・グスマンの『東方伝道史』には、
「補陀落船は、あらかじめ船底に穴が開けられていた」という
記述が出てきます。万に一つも生き残らないようにしている
わけです。ちなみに同書には、「見物人はみな、僧たちを
うらやましがって泣いた」とも書かれています。

さて、この補陀落渡海は全国で例が見られますが、最も多く
行われたのが、熊野三山に近い那智勝浦なんです。
『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に
20回実施されています。これをとり仕切ったのが、
熊野三山の支配下にある補陀洛山寺です。

補陀洛山寺の記録には、平安・鎌倉時代を通じて6名の
渡海者が出ていますが、戦国時代になると9名と増えます。
これは、参詣者が少なくなった熊野三山で、人々の願いを持って
補陀落浄土へ行くという形で宣伝をしたのではないかという
説も出されてるんです。

補陀落船
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ただ、上の20回すべてが生きた人間を補陀落船に乗せた
わけではなく、16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの、
途中で屋形から脱出して近くの島に上陸してしまい、捕らえられて
海に投げ込まれるという事件が起こり、それ以後は、住職などの
自然死した遺体を渡海船に載せて水葬するという形に変化しました。

で、この補陀落渡海が『平家物語』とどう関係があるかというと、
能の『紅葉狩』の鬼女伝説で有名な平維盛が、補陀落渡海をした
という話が出てるんですね。戦いが嫌になって戦線を離脱した
維盛は、出家して熊野三山に入り、那智海岸から一人
船を漕ぎ出して沖に身を沈めたとなってるんです。

これは完全な補陀落渡海です。熊野三山は特に武家からの信仰が
厚く、補陀落渡海のこともよく知られていたようです。
維盛は渡海に際し、木の皮を剥いで自分の氏名・年齢を記したと
されますが、これも渡海上人たちが補陀洛山寺に額札を
残したのと同じ形です。

平維盛
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さて、また那須与一の話に戻って、与一のように主君に困難な
腕試しを命じられ、失敗してしまった話が『吾妻鏡』に
出てきます。鎌倉時代に入ってからですが、下河辺行秀という
御家人が、巻狩の際に将軍頼朝から一頭の大鹿を射ることを
命じられ、この矢を外して、その場で髪を切り出家、

行方をくらましたと書かれています。で、この行秀、
智定坊という名を熊野三山からもらい、修行の後に補陀落渡海を
実行しているんです。おそらく、上記した20名の中に
入っているものと思われます。

法然の弟子となり出家した熊谷次郎直実
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ですから、もしかしたら那須与一も、矢を外した後、
腹を切るのを同輩に止められ、出家して補陀落渡海していた
可能性もあったのかもと思います。まあでも、
見事に命中したことにしないと、物語としては成立しませんよね。

さてさて、ということで、『平家物語』の時代と補陀落渡海に
ついて見てきました。中世の武家の面目と信仰を考える上で
貴重な資料だと思います。そういえば、敦盛を泣く泣く討ち取った
熊谷次郎直実も出家してるんです。では、今回はこのへんで。

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