今回はこういうお題でいきます。けっこう専門的な古代史の話なので、
興味のない方はスルーされてください。さて、西王母といえば、
みなさんは何を思い浮かべられるでしょうか?

『西遊記』のエピソードが有名ですよね。乱暴者の猿の妖怪だった
孫悟空は、天界に招かれて斉天大聖の名前を賜ります。これ、道教風の
名前ですよね。道教の名前ってどれもすごく大げさで偉そうなのが特徴です。

で、天界の中でも嫌われていた悟空は、西王母が3月3日の誕生日に開く
蟠桃会(桃を食べる会)に自分だけ招待されなかったのを怒って
乗り込み大暴れします。この桃を食べると不死になるんですが、悟空は
それ以前から不死の身体を持っていました。

ちなみに余談ですが、孫悟空は中国では孫行者と呼ばれることが多いんです。
行者は仏教の修行者という意味で、なぜそう呼ばれるかというと、悟空というのは
諱(いみな)で、みだりに口に出してはいけないからです。『三国志』に出てくる
髭の長い英雄は「関羽 雲長」ですが、

 



「関」は姓、「羽」が諱、「雲長」が字(あざな 通称)なので、諱は呼ばれず、
「関雲長」と言われてるんです。今でもその習慣が残ってるんですね。さてこんな、
ことを言ってるとそれだけで終わってしまうので、西王母に移りたいと思います。

 



西王母は前4世紀ころに書かれた『山海経』にも出てきます。ですから、
ルーツは相当に古いと考えられます。それに比べれば、『西遊記』は明代
(16世紀)に書かれたものですから、それよりずっと新しいものです。
それだけ長く西王母への信仰は続いていたんです。

『山海経』の神仙思想の西王母は、豹の尾とトラの歯を持ち、乱れ髪にかんざしを
挿した恐ろしい姿として描かれます。刑罰を管理し、災厄を司るとされて
いました。それが神仙思想が道教に変わるにつれて、優美な女性として描かれる
ようになりました。

ここでまたうんちく。神仙思想と道教はどう違うか? 中国では紀元前から神
(神農など)と仙人の話が伝わっており、うやまわれていましたが、それに
老子、莊子の思想を取り込んで、2世紀ころに生まれたのが教団道教。
五斗米道などが有名です。

さて、西王母は玉山、または崑崙山に住んでいる不老不死の女神で、最高位の
女神として信仰されてきました。3羽の鳥が食物を運び、身の回りの
世話をしているとされます。東方の蓬莱山に住む男性の神、東王父と対になる
とされています。

 

卑彌呼



では、この中国の古い神が日本の邪馬台国の女王卑弥呼とどう関係があるかと
いうと、近畿地方中心に出土する銅鏡、「三角縁神獣鏡」の文様に
西王母と東王父、数匹の神獣が出てくるからです。

この鏡、もちろん九州説では日本製、国産と言いますし、近畿説では卑弥呼に

鏡を与えた魏製であるといい、文様の様式や成分などをめぐって論争が

続いています。九州説では、魏志倭人伝で卑弥呼に与えられた鏡は

100枚と出てくるのに、三角縁神獣鏡の出土は500枚を超えること。

古墳時代の古墳から主に出土すること。中国では同様の形式の鏡は見つかって
いないこと。などをその論拠としています。しかし、自分が思うのは、
もしこの鏡が国産だったとして、どうしてこの画像が選ばれたのか?
ということです。

この三角縁神獣鏡より時代が前の鏡として、画文帯神獣鏡があり、
こちらは中国でも見つかっています。三角縁神獣鏡を造るときに、
この画文帯神獣鏡の文様をコピーしたとしても、問題はどうして
その画像が選ばれたのかということです。

 

倭迹迹日百襲姫命と弟の吉備津彦命



単にその画像が重厚で立派だったからだけではないと思うんです。
ある仮説によれば、日本の古代には「ヒコーヒメ制」があり、
これはヤマト王権が成立する前後の古代日本では、祭祀的・農耕従事的・
女性集団の長のヒメと軍事的・戦闘従事的・男性集団の長のヒコが
共立的あるいは分業的に一定地域を統治していたとするものです。

あまり議論にならないテーマなんですが、自分は魏志倭人伝にある
「(卑弥呼は)非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを
助けている」という描写を表しているのではないかと思うんです。

つまり、三角縁神獣鏡の東王父と西王母は卑弥呼とその弟を表している
のではないかと思うんです。それを象徴する文様として選ばれた。
まあ、これには根拠はないんですが、
どうしてもそう思えるんですよね。自分の妄想でしょうか。

さらに、もし卑弥呼が『日本書紀』に出てくる倭迹迹日百襲姫命
(やまとととひももそひめ)だとすると、その次の弟は比古伊佐勢理毘古命
(ひこいさせりひこ)、吉備津彦命などがいて、このうち吉備津彦命は
民話の桃太郎のモデルになったのではないかとされる人物です。
倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳からは吉備発祥の特殊器台が
出土していて吉備との深いつながりを感じさせます。

 

三角縁神獣鏡の西王母と東王父



また比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)は、魏に使いに出た
一人、伊聲耆(いせき?)と音韻が似ている気がします。この伊聲耆
というのは、中国人が倭人の発音を聞き取って漢字表記したもので、
元の発音とは変形してしまっている可能性があると思います。

さらに、邪馬台国の官として、「伊支馬(いきま?)、彌馬升(みまそ?)、
彌馬獲支(みまわき?)、奴佳鞮(なかて?)」があげられていますが、
伊支馬は垂仁天皇(活目入彦 五十狭茅いくめいりひこ いさち)、
彌馬升、彌馬獲支は垂仁天皇の父、崇神天皇
(御間城入彦 五十瓊殖 みまきいりびこ いにえ)と共通している部分が
あると感じます。

この崇神天皇、垂仁天皇などというのは後代の諡(おくりな)ですが、
それ以外で類似する部分があまりに多く、

偶然の一致とは思えないところがあるんです。


もちろん、音韻の類似だけでは強い根拠にはならないんですが、考古学的な
ことも含めれば、近畿説が有力であるのは動かないと思います。
ふう、長くなりました。では、今回はこのへんで。