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キンタマに異常をかかえた2人

今回はこういうお題でいきます。日本史の話ですが、有名なので
ご存じの方もおられるかと思います。さて、江戸開城とは、
幕末の慶応4年(1868年)3月から4月にかけて、
明治新政府軍と旧幕府との間で行われた、江戸城の新政府への
引き渡しのことを言います。

新政府軍は幕軍を追い詰め、江戸城への総攻撃を計画していました。
これが行われれば、江戸の街は戦場となり大火が起きた可能性もあります。
しかし、関係者の努力によって、江戸城は戦闘のないままに開城、
庶民が戦いに巻き込まれることはなかった・・・

だいたいこんな説明をされることが多いんですが、実際には、
新政府軍と幕軍の全面衝突はなかったものの、
城下では城下では新政府軍による商家の焼き討ち、
江戸城内では、薩摩藩士によるゲリラ攻撃で二ノ丸が全焼したり
していたんですね。

勝海舟


さて、このあたりの詳しい事情はここでは書きませんが、
江戸無血開城の立役者といえる2人の人物は、幕府側が陸軍総裁
であった勝海舟、新政府側が征討大総督府参謀の西郷隆盛。
この2名が座談している場面は絵画などになってますね。

これ、もしこの交渉が決裂していたらどうなっていたんでしょう。
一説には、勝は、江戸の民衆を千葉に避難させたうえで新政府軍を
城下に誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところに
ゲリラ的掃討戦をしかけて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる

焦土作戦の準備をしていたとも言われます。
まあ、歴史に「もし」はないわけですが、その可能性は十分に
あったでしょうし、もしかしたら、幕府側を支援していたフランス、
新政府側についたイギリスも巻き込んで大変な事態になって
いたかもしれません。

西郷隆盛


さて、ここまではみなさんもよくご存知のことと思いますが、
じつは勝と西郷の2人とも、男子の急所であるキンタマに
弱点を抱えていたんですね。このあたり、もちろん偶然なですが
歴史は面白いなあと思います。

まず西郷のほうですが、上野の西郷さんの像は浴衣のようなのを
着てますよね。西郷は洋装、特にズボンが嫌いだったとされますが、
それはキンタマが巨大だったためのようです。
どのくらいかいうと、現代のバスケットボールほどの大きさ。

フィラリア寄生虫


これは生まれつきというわけではなく、気の毒な病気のためです。
西郷は1859年、藩命に背いて尊攘派の僧侶、月照を匿ったため、
西南諸島に流刑にされます。西郷は月照とともに入水自殺を
図り、月照は死亡しまたが、西郷は奇跡的に一命を取りとめています。

で、この流刑のとき、フィラリアに感染してしまったんですね。
フィラリアというと犬の病気として知られていますが、
蚊を媒介とした寄生虫感染症で、様々な種類があります。
熱帯地方には、人のリンパ管に寄生して皮下組織を変形させる
種がいて、象皮病の原因とされます。

僧 月照


このときから西郷のキンタマは腫れあがり、ズボンをはけない
体になってしまった。それを気にして、岩倉使節団への参加を
断念したとも言われます。また、明治になって西南戦争で敗れた
西郷は鹿児島の城山で自決し、首は介錯した部下が持ち去りました。

このとき、首のない死体を西郷だと断定したのがキンタマの大きさ
だったという話もあるんです。さて一方、勝海舟のほうですが、
今に残る写真を見れば、すらりとした好男子で、
さぞやモテただろうと思われますが、じつは片方のキンタマがなかった。

西南戦争


これも不幸な事故によるものです。海舟の父、小吉が記した日記
『夢酔独言』には、海舟が9歳のころ、ノラ犬に追いかけられて
キンタマ袋を食い切られ、蘭方医によって傷口は縫われましたが、
タマを片方喪失。2ヶ月ほど寝込んだようです。
それにしても狂犬病にならなかったのは幸いでした。

ただ、片方がなくなっても生殖能力が失われたわけではなく、
9人の子どもをもうけています。勝は、これがきっかけで
犬が大の苦手となり、遠くの吠え声を聞いただけで
ふるえが止まらなくなったとも言われますね。



さてさて、ということで、勝海舟、西郷隆盛に関する面白裏話的な
内容になりました。この江戸無血開城ですが、もし全面対決が
行われていれば、江戸城が皇居として利用されることもなく、
また、江戸の街がそのまま首都東京になることもなかったかもしれません。

京都が首都になり、日本の文明開化にも大きな影響が出た・・・
そう考えるとじつに大きな出来事だったわけですね
この後、上記したように西郷は西南戦争に倒れましたが、
勝は75歳まで生きて『氷川清話』などの著作を残しています。
では、今回はこのへんで。