今回はこういうお題でいきます。どちらも平安時代中期の女流文学者で、

清少納言は比較的短い随筆『枕草子』、紫式部は全54帖もの長編の物語

『源氏物語』を著したことで知られています。この2つはどちらも

現代まで読みつがれていますね。

さて、この2人は同時代(1000年頃)の人でしたが、じつは出会った
ことはなかったようです。というのも、2人の宮廷出仕の時期は微妙に
ずれていて、清少納言が宮廷を辞してから数年後に紫式部が宮廷に上がって
いるうえ、少納言は一条天皇の皇后である定子に仕え、紫式部は
同じく一条天皇の中宮彰子に仕えていたためです。

清少納言が定子のもとに出仕したのは、993年の冬頃とみられ、外交的な
性格と機略に満ちた受け答えで、たちまち定子のサロンの人気者になりました。
和歌や漢学、日本書紀などの知識が豊富な清少納言を定子は信頼していたようで、
清少納言に当時貴重な紙束を与えて執筆を勧めたのも定子でした。
ですが、定子が1000年に死去すると宮中を去ることになります。

一方、紫式部が宮中に入ったのは1005年のことで、このとき紫式部は
『源氏物語』を部分的に書き上げていて、それが評判を呼んだために出仕を
薦められたものと思われます。ですから、少なくとも宮廷では会っていません。
おそらくそれ以外でも、会うことはなかったと思われます。

 



ただ、紫式部が清少納言を文筆の先輩と意識していたのは確かで、
紫式部は『紫式部日記』の中で、「清少納言こそは、得意顔でとんでも
なかった人。利口ぶって漢字を書き散らしているが、その学識の程度も、
よく見ればまだまだ足りない点ばかりです。

 彼女のように、好んで人と違っていたいとばかり思っている人は、最初は
新鮮味があってもやがて必ず見劣りし、行く末はただ異様なばかりに
なってしまうものです。風流を気取った人は、たいそう寒々として風流と
程遠いようなときにも感動し、素晴らしいと思うことを見逃しませんから、

そんなことをしている内に、一般的な感覚とかけ離れてしまい、
自然と的外れで中身のない人間になってしまいますでしょう。そんな
中身の無くなってしまった人の成れの果てが、どうして良いものでしょうか」

 

 

こんな感じで、静謐な『源氏物語』の作者とは思えないような激しい
言葉でこき下ろしています。もちろん、先に宮廷を退出した清少納言には
紫式部の評はありませんので、一方的な話になってしまうことは
いたしかたないんんですね。

ここからは自分の感想ですが、あの長い『源氏物語』を黙々と書いた
紫式部は、かなり辛抱強い、我慢強い人であったと思われます。
また『源氏物語』の底流には、当時の仏教的な観念が色濃く流れて
います。

これに対し、『枕草子』の内容は、感覚的で機知に富むものです。ただし
それだけではなく、当時女性には不必要とされた漢文・漢学の知識が
随所に見られ、しかもそれをひけらかしています。おそらく、おくゆかしい
紫式部はそういう面を嫌ったものだと思われます。

2人の歌はどちらも百人一首にとられていて、清少納言が、

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ ですが、
 
これには函谷関(かんこくかん)の関所を鶏の鳴き真似をして越えた
という中国の『史記』の故事が読み込まれています。中国の函谷関なら
それで通れても、日本の逢坂の関は無理ですよ、と言っているわけで
逢坂の関と自分に逢うという意味がかけられています。

かなりの教養がないと意味がつかめない歌なんです。

これに対し紫式部の歌は、

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

 



ですので、分かりやすい、訳すまでもないようなものです。それにしても
2人の性格がそれぞれよく表されていて、これらの歌を選んだ藤原定家も
またすごい人だったことがよくわかります。

ああ、もうこんなに長くなってしまった。最後に、この2人はどちらも
本名はわかっていません。平安時代の女性は、他人には滅多に本名を
明かさなかったんです。特に自分から明かすことはありません。

清少納言の「清」は清原氏から、「少納言」は親族にその位についた人がいた
ためで、ですから「せいしょう・なごん」と区切って読むのは間違いです。

正しくは「せい・しょうなごん」ですね。
また紫式部は、「紫」は『源氏物語』の登場人物、紫の上から、
「式部」は父の役職からとったと考えられています。

さてさて、ということで日本史に名を残す2人の女流文学者の関係を
見てきたわけですが、まだまだ書き足りないですね。ただ、現代でも
こういうタイプの人はいて、そのあたりは変わらないなあというのが
感想です。では、今回はこのへんで。