前に「哲学的思考実験」という項を書きまして、
今回はその続きのようなものですが、問題はずっと深刻です。自分は
倫理学は難しいなあと、いつも思います。はたして正解はあるんだろうか、
と考えさせられてしまうようなテーマがいろいろあるんですね。

例えば、死刑の問題などがそうです。現在、死刑は先進国の多くでは
廃止されていて、今だに実施している日本には批判がありますよね。
ですが、日本国民にアンケートをとってみれば、
死刑容認の立場をとる人が多いのも事実です。

(内閣府世論調では、死刑制度容認が80%超)これは日本の歴史に
よって形成された価値観による合意とも言えるでしょうから、
簡単に他国の風潮に従うものではない、という議論もあります。
あるいは避妊、堕胎、同性愛などの問題。これは長い間、



キリスト教の神による禁止事項であったため、カトリック国では厳しく
制限されてきましたが、現状に合わない面もいろいろ出てきているようです。
他国にも、やはり歴史的な宗教文化の影響はあるのです。
イスラム国家の死刑で、石打ちの刑などというのもありますね。

これも残酷だ、野蛮だという議論があるものの、しかし、ムハンマドが
イスラムを始めて、すでに1500年もの歴史を積み重ねていて、
その間、多くの人が信じて行ってきたクアルーンの定めなのです。他文化、
他宗教の人間が安易に否定できるのかというと、やはり難しい面があります。



倫理学とは、Wikiによれば、「行動の規範となる物事の道徳的な評価を
理解しようとする哲学の研究領域の一つ」となっています。
しかし、この定義もわかりにくいですよね。じゃあ道徳って何?
と言いたくなってしまいます。倫理学は長い間、

哲学、あるいは法哲学の一部として研究されてきたんですが、
いくら考察を重ねてもスッパリと割り切ることのできない問題が存在します。
今日ご紹介するのは、倫理学的な思考実験のうち「トロッコ問題」と
俗に言われるものです。有名なのでご存じの方も多いでしょう。

① 「何人かが乗っているトロッコが暴走を始めた。Aさんはたまたま、
トロッコの軌道を切り替えられる位置に乗っている。まもなく前方に、
分岐点が見え始め、トロッコはそのまま進めば5人の人間を跳ね飛ばして
確実に死に至らしめる。もし軌道を切り変えると、先にはBさんが一人いて、
やはり確実に死んでしまう。このときAさんが軌道を変えるのは許されるか?」

イスラムの定めによる石打の死刑 罪状は未婚女性との姦通
キャプチャ

こういう問題です。このときに「その5人の中に知り合いがいるかどうかで、
違ってくるだろう」などと言うのは思考実験のルールに反しています。
また、Aさんの行為が罪に問われるかどうかは、この際考えません。
これに対する回答として、いくつかの立場があります。

・5人が犠牲になるより1人で済むほうがいいのは当然だから、
Aさんは軌道を変えるべきだ。(功利主義的な立場)
・ある目的のために、他者の命を犠牲にするのは悪であるから、
Aさんは何もするべきではない。(義務論的な立場)

・その5人は死すべき運命にあったのだから、Aさんは何もすべき
ではない。(運命論的な立場)  あとは、Aさんの決断は法に
触れてないのだから、どうするかは自由であり、他人がどうこう
言うべきでないとか。こういう場合どうするか、多数決で決めておくとか。

トロッコ問題は自動運転のプログラムと関連がある


まあ、実際にそんな限界状況になれば、考えることもできず、
とっさの行動もできずというケースが多いような気がしますが、
それはそれとして、これ、みなさんはどうお考えになるでしょうか?
各国で、5000人以上が回答したアンケートによれば、

80%以上の人がAさんが軌道を切り替えるのは許される、と答えています。
この傾向は、その回答者の育った文化や、学歴にはあまり左右されない
ようです。また、回答した人で、自分の判断を論理的に正当化できた人は、
3割程度であったとする調査もあります。つまり「なんとなく」
許されるんじゃないか、と思った人が多いということでしょう。

では次の問題、② 「AさんとBさんが線路のホームにいる。Aさんは痩せていて、
Bさんは太っている。そこへ5人が乗っているトロッコが暴走してきて、
そのままでは乗っている人は全員死ぬ。ここでAさんは、Bさんを線路に
突き落とせば、それが障害となってトロッコは止まると考えた。



ではこのとき、AさんがBさんを突き落とすのは許されるか?」
もちろん思考実験ですので、Aさんが自ら飛び降りてもトロッコは
止まらないし、Bさんを落とすとトロッコは確実に止まります。
これによって、Aさんが殺人罪に問われることはありません。

さて、結果はだいたい予想がつくと思いますが、アンケート結果は、
許されると回答した人は11%しかいませんでした。
どうしてこういう結果になるのでしょう。単純化して考えれば、1人を
犠牲にすることによって5人を助けることができるという点は同じです。

違いがあるのは、Aさんの行為として、軌道切り変えのレバーを引くか、
Bさんを突き落とすかということですよね。
①は許されて、②は許されないとする判断基準は何なのでしょうか?
一つの解答として、②の直接Bさんを死に追いやる行為をする場合、
他の場合とは違う脳の分野が働いている、という研究があります。

キャプチャ

他者を直接害する、殺すといった行為に強く拒絶反応をしめす部分です。
人間の脳が、これはよくないことだと警告を発しているとも言えるかも
しれません。ちなみに、人間ではなく大型犬を突き落とす場合だと、
多くの人が許容されると回答しています。

あと、類似問題として、「臓器くじ」というのもあって、
③ 「完全に公平なくじで一人の人間を殺し、その臓器を5人の人間に
分け与える。生体からの臓器移植をしないとその5人は必ず死に、
移植すれば必ず助かる。他に5人を救う方法はない。」

みなさんはこのような社会制度を容認できますか。上の2つの
問題と違うのは、回答者もくじにあたって殺される可能性があること、
逆に将来、臓器移植を受けて命が助かる可能性もあること。くじは公平で、
たまたま交通事故やその他の事故で亡くなる確率と、あまり変わりません。



さてさて、これも難しいですよね。アンケートを取れば、
許されないと答える人が多いのではないでしょうか。何の罪もない人間を、
故意に殺すのはやはり罪であると考える人が多そうですし、
病気になったのはその人の運命だから、という考え方もあるでしょう。

ここで冒頭に書いた死刑の話に戻りまして、では、これがくじではなく、
死刑囚からならば臓器を取ることは許されるのでしょうか。実際にそれを
やっていると噂される国も、地球上にはありますよね。この議論は、
前に少し書いた「ヒトの受精卵を用いた研究」とも関連があります。

日本でも「ヒトの受精卵操作、臨床利用除き必要に迫られる基礎研究にのみ容認」
というニュースが、今年5月15日に政府生命倫理専門調査会から
発表されました。上記したように、倫理学の議論・判断は難しいんですが、
しかし、今後ますます必要とされる場面が増えてくると思われます。