小学校の図工専科の教師をしています。どうぞよろしくお願いします。
新年度が始まったばかりの4月の放課後のことでした。私は美術室にいて、
子どもたちの作品を整理していたんです。そこへふらりと、
年配の女性が訪ねてこられました。西田先生です。
西田先生はこの県では大変有名な女流画家の方で、中央の展覧会で何度も入賞し、
地方新聞の小説の挿絵なども描いていらっしゃいます。
そして私の美術大学時代の恩師でもあるのです。

「まあ先生、お久しぶりです、こんなところにどうして?」
「いえ、用事で近くによったところで、あなたがこの学校に
勤めていることを思い出して様子を見に来たのよ。
それに、大学の4年間つき合ってた彼と別れて、
ここのところずっと落ち込んでるみたいって噂も聞いたし」   「・・・・」 

西田先生は、昔からこういう聞きにくいことを、

ずばりと言ってこられる方なんです。幸いにしてその方面に話題は進まず、

昨今の美術界の動向などをお話した後、

先生は、ずらりと壁に貼られている子どもたちの絵を眺めておられましたが、
一枚の絵の前で立ち止まって、そこで動かなくなってしまわれたのです。
「これ、一枚だけずいぶん奇妙なモチーフね」

先生はつぶやくようにおっしゃいました。
そのコーナーにあるのは2年生の絵で、題材は「わたしのすきなもの」 

ほとんどの女の子はケーキや果物、男の子は乗り物やアニメの

キャラクターなど、それに男女ともお母さんを描いているものが

多かったんですが、先生が目に止めた絵だけは、
どういうわけか鋭角の二等辺三角形が並んだものでした。
タッチは稚拙ではありましたが、色使いは原色ではなく、
赤と黒を混ぜ合わせた深みのあるものだったんです。
「これ、とても小学2年生の絵じゃないわね。描いたのはどんな子?」
「あ、はい。フランス人の血が混じった女の子でマリーという名前です。
両親がいないために、キリスト教の慈善施設から

この学校に通っているんですよ」

「へええ、それにしてもこの絵は特異なんてものじゃない。
その子、学級での様子はどう?」
「それが、3歳までフランスにいたせいで、日本語がまだうまくないんです。
それに髪は赤毛で容貌が日本人離れしているために、
イジメられているってほどではないんですけど、
クラスにうまく溶け込めていないみたいで」「うーん、なるほど。

この三角ね、すごく強い力を感じる。何でか、何でかなあ?」

西田先生は小首をかしげて考えておられましたが、
「ねえ、この子が授業にくる時間を教えて。
私ちょっと見てみたい。校長先生にも話を通しておくから」

こうおっしゃいまして、それは簡単なことですので、

時間割を見て日時を伝えたんです。
それは翌週の火曜の3校時で、粘土をあつかった図工の時間でした。
粘土を高いところから落として変形させ、その形をヒントにして、
思いついたものを作るという学習です。子どもたちは最初の説明を

 

それなりに聞き、思い思いに活動を始めました。

そこへ美術室の後ろ戸から西田先生が入ってこられたんです。授業中

でしたので私は目礼するだけでしたが、西田先生はすぐに赤毛の子を見つけて、
近づいていかれました。マリーはというと、イスに立ち上がって落とした粘土の、
ぐしゃぐしゃの形を前にして途方にくれている様子で、

いつまでも手が動き出しません。20分ほどが過ぎて、

男子の中には飽きて勝手に遊び始める子が出てくる時間帯です。
案の定、マリーの隣にいた男の子が、作業机の上にのったマリーの長い赤い

髪の毛に粘土をくっつけるイタズラを始めました。

マリーは気づかない様子でしたが、そのうち髪の毛が巻き込まれる痛みを

感じて、男の子の方を向いてきっとにらみつけました。
すると男の子は「なんだ、外人のくせに」のような言葉を発し、
髪の毛がくっついたままの粘土を高く持ち上げ、火がついたようにマリーが

泣き出し、私が止めようと近づいたとき、マリーと男の子の間の空間が
赤黒く渦巻いたように見えました。

「えっ!?」その空間から、いくつもの鋭い二等辺三角形が出てきました。
そして鋭角の先が男の子の顔をねらって飛びかかっていく・・・
そのとき、西田先生が男の子を後ろから抱き上げて離れたところに下ろし、
三角形の群れに向かってパンと両手を叩いたんです。
そしたら三角形たちは一瞬でかき消え、
いっそう強く泣き叫ぶマリーの声だけが教室内に響いていたんです。

他の子たちには三角形はまったく見えていなかったようでした。

 

なんとかマリーをなだめすかし授業を終えた後、西田先生が私に、
「あの子のご両親のことを知りたい。担任の先生に紹介してくれる」
こうおっしゃいました。その後、西田先生はずっと学校におられて、
放課後になってマリーの担任の先生とずいぶん長い時間

話し込んでおられました。それが終わってから、

私のところへやってこられてこうおっしゃったんです。
「あなたまだパスポート持ってる?」  
「はい、卒業旅行のときのがあります」

「じゃあ、すぐじゃないけど、一緒にパリに行かない。

数日なら学校のほうも休めるでしょう」  「え、突然またどうして・・・」
「私はこれからやらなければいけないことがあるから、日時が決まったら

連絡する。飛行機も宿もちゃんと手配しておくから大丈夫。
フランスへは観光ならビザはいらないしお金の心配もしなくていいから」
西田先生は眼鏡の奥でおだやかに笑って
そうおっしゃられたんですが、私には何がなんだかわかりませんでした。

それから2週間後、先生から連絡があって地元の空港で待ち合わせをしました。
空港にいたのは西田先生とマリー、そして30代と見える長身で無精髭の男性。
「慌ただしかったでしょう。まあでも、あなたにとっても久しぶりのパリね」
そして所在なげに下を向いている男性の背中を押して前に出し、
「こちらマリーのお父さん。なんとか早めに見つかってよかったわ。
親権者がいないと子どもは海外に連れてはいけないですからね」

東京へ向かう飛行機の中で事情をお聞きしました。
マリーのお父さんは大阪で肉体労働をしているところを、
西田先生が手をつくして見つけたのだそうです。
マリーとフランスから帰ってきた翌年、マリーをキリスト教養護施設に

捨てるように別れてしまったためか、親子2人の関係は

よそよそしいものに見えました。やがて飛行機は東京に着き、
私たち4人は羽田からフランスに向かう国際便に乗り換えたのです。

ここからの話は細かいことは省略します。
私たちはシャルル・ドゴール空港に降り立ち、西田先生は

タクシーをつかまえて流暢なフランス語で行き先を告げられました。
先生は若い頃、10年以上もパリで暮らしていたことがあるんです。
タクシーは郊外へと出て田舎道をしばらく走り、
着いた先はこじんまりした白い建物。

どうやら病院のようでした。あらかじめ連絡を入れてあったようで、
西田先生、私、マリーの父親、マリーの4人は病院の2階の個室に通されました。
そこのベッドには一人のフランス人の女性がいくつもの管につながれて

眠っていました。その姿を見てマリーの父親はボロボロと涙を流し、
ベッドに駆け寄って名前を呼びました。西田先生は私に、
「この人がマリーのお母さん。お父さんと別れてから事故に遭ったの。
もう植物状態が何年も続いてるんだって。かわいそうに・・・」
そうおっしゃって、目で病室のベッドの頭のほうにある壁を指し示しました。

そこには一枚の抽象画が飾られてあり、
絵の中には何枚もの鋭角三角形が描かれていて、
作者は画学生時代のマリーの母親でした。「さあ手を握ってあげないさい」
西田先生はやや強い口調でマリーの父親に言い、そしてマリーの手も取って、
痩せた母親の手を握った父親の手の上に置いたんですよ。

ブーンという蜂のうなりのような音が聞こえたんです。壁の絵のほうからです。
見ると、抽象画の三角形が絵の中でくるくると渦を巻いていました。
そして回転が早まると、二等辺三角形の一枚が宙に飛び出しました。
三角形はあとからあとから飛び出し、部屋の天井をかけ回り、
元の絵では赤黒い色だったものがどんどん色調を変え、やがては虹の色に

変わって、部屋中に光をふりまくようにしてめぐりはじめたんです。

それは信じられないような光景でした。マリーの父親は泣きじゃくっていました。
マリーの頬が赤くなり「ママン」と言いながら、寝たきりの母親の胸に

頭をのせました。私は、自分がじゃまもののような感じがしながら、
ただ黙ってその様子を見ているだけでしたが、西田先生が私の背中を押して、
2人で病室の外へと出ました。
「私の役目はここまでかな」西田先生がそっと言いました。

これでお話はほとんど終わりです。後で聞かせていただいたんですが、
フランスに貧乏留学に来ていたマリーの父親とパリ生まれの母親は、
美術専門学校で知り合って正式に結婚しないままマリーが生まれた。
そしてその後ひどいケンカ別れをして、
父親は意地を張ってマリーを無理に連れて日本に帰った。でも結局は

マリーを育てられず、施設にあずけて絵を捨てて日雇いの仕事を始めた。

ええ、施設には養育費は入れてあったそうです。
マリーの母親とは音信が取れなくなり、
事故で植物状態になっていることも知らなかったということでした。
「ハッピーエンドにはならないかもしれない。でもね、あの三角形は、
母親のマリーを思う気持ちから生まれたもの。その気持は日本にまで

届いていた。だからね、奇跡が起きることだってあるかもしれない」

西田先生はおっしゃいました、「絵の力ってすごいものなのよ。

もちろんそれを生み出す人の心がすごいのだけど」と。

あとは後日談です。マリーの父親は西田先生のお力で、
フランスで美術関係の仕事を見つけることができました。
マリーとともにフランスで暮らすんです。
そうして2人で毎日のように母親の病室を訪れます。
ええ、母親の意識は戻ってはいません。でも、マリーが手を握ると、
握り返すような動作をするようになっているということでした。

私は、せっかくのパリでしたので、西田先生とともにルーブルや

オルセーを訪れ、モナリザをはじめとする数々の美術品と再会しました。
「もちろん技術は大切。でもね、それは心に裏打ちされてないと
そんなに価値のないものなの。あなたはどう? 
心を豊かにする日々がある?」と、西田先生。私は・・・

この言葉を聞き、なぜ先生が私をパリにまで連れてきてくださったかが
わかったような気がして、ただ深く頭を下げることしかできませんでした。