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今回はこういうお題でいきます。元寇とは、日本の鎌倉時代中期の

1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝のフビライ・ハーンと

その属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻のことです。

蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき)、

2度目を弘安の役(こうあんのえき)といいます。

 

このとき日本の地を守るために神風という強風が吹き、元軍を壊滅

させたといわれ、それが近代の太平洋戦争まで伝えられて、

神風特攻隊にまでつながっていきます。

 

では、史実的に本当に神風は吹いたのでしょうか?まずは文永の役

を見てみましょう。文永11年10月10日、元(モンゴル)の皇帝

フビライ・ハーンは総勢4万の兵を送り込み、博多湾から上陸しました。

 

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このときの日本軍は主に九州の武士だったんですが、モンゴル軍の

集団戦法に対して、一人ひとりが名乗りを上げる戦い方は廃れてきて、

いましたが、てつはうなどの見たことのない兵器もありました。

 

ただし、モンゴル軍にはわからなかったことがあります。それは

日本武士の執念と意欲です。当時の武士にとっての戦いとは、それによって

家の領地を増やし、名を高めるための手段であり、おおげさに

いえば生きる目的だったんですね。

 

このときは日本の武士は苦戦し、太宰府まで退却しますが、

日没・停戦となり、そして翌日になったところ、海上には

モンゴルの大船団は影も見えなくなっていたんです。

 

北条時宗

 

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モンゴル軍は一夜のうちに撤収してしまったんですね。これはなぜ

でしょうか?高麗の資料『高麗史』『高麗史節要』によれば、夜の

うちに強風が吹いたので撤退したとなっていますが、『元史』という

モンゴル側の資料では、日本側の抵抗は激しく、モンゴル側にも

大きな被害が出て矢も尽きたため撤退したと書かれています。

 

しかし、たった1日の戦いで矢が尽きるほどの準備不足だったとは

思えず、おそらくは元軍の力を日本に見せつけ、外交交渉を優位に

進めるための示威行動だったのではないかという見方が

現在では強まってきています。

 

それと馬の輸送の問題があって、発熱や疫病で使えなかった馬も多く、

また急造の船も故障がちで、モンゴル軍は大陸での力を発揮できなかった

でしょう。

 

神風特攻隊

 

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二回目の弘安の役では、元軍・高麗軍の二手に分かれて14万

もの大軍を送り込んできており、このときはモンゴルも本気

だったと思われます。

 

ですが、日本側ではときの執権、北条時宗の命で北九州沿岸に

長大な防塁を築くなど準備を進めており、御家人やそれ以外の

武士も奮戦して、一ヶ月以上も日本への上陸を許さず、

 

台風のシーズンまで戦いを引きのばし

また、危険を意に介さず、小舟で夜中に元船に奇襲をかける

などして、相手をさんざんに悩ませました。

 

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日本軍は勇敢で、それは戦場で死ぬことが武士の本懐と心得ており、

また手柄を立てることが家を富み栄えさせる唯一といえる

手段だったからです。このような習慣は世界でも珍しかったと

 

思われます。これは貴族になり代わって戦うという、日本の武士の

存在意義からきています。そして元軍は上陸できないでいるうちに、

大風のために兵船の多くが大破してしまい、

 

ほぼ全滅に近い状況になったんですね。ただ、風によって

全滅したわけではなく、現長崎県の鷹島というところに嵐を避けて

退避していたところを、日本軍の掃討にあったようです。

  

敵船に斬り込んで首を取る日本武士団

 

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ですから、夜襲でも手柄の証拠のために蒙古兵の首を取っていました。

で、このときに大風が吹いたことは日本側の記録にも残っており、

まず間違いないと思われますが、それがどの程度、台風なみだったのか、

それとも熱帯低気圧程度だったのかはわかっていません。

 

さてさて、最初に書いたように、このことは日本の歴史上語り継がれ、

20世紀の太平洋戦争にまで続くんですね。ですから、神風は

少なくとも元軍の2度目の侵攻のときはあったんですが、それが

後世のためによかったかどうかはなんともいえません。

では、今回はこのへんで。

 

軍歌 元寇

 

タイトルなし

 

追記:日本がモンゴル軍を撃退できたのは、中央集権の王政ではなく

封建制だったから、という議論があります。

絶対王政の場合、王直属の軍隊があり、それがモンゴル軍に

負けてしまうとその国は支配されます。

 

それに対し、日本の場合は封建制で各地に300騎、500騎といった軍勢があり、

モンゴル軍にとっては、あちこちから敵が出てきて際限がないように感じられた

でしょう。まして正確な地理情報があるわけでもなく、おそらく台風がなくても

日本侵攻は難しかったと思われます。