日吉大社

今回はこういうお題でいきます。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
についてのお話です。日本史に入れておきましょう。
まず、廃仏毀釈を語る前に、寺請制度について。
寺請制度とは、檀家制度とも言い、江戸幕府が宗教統制の
一環として設けたものです。

最初はキリシタン統制として始まりました。どこかの寺から
寺請証文を受けることを民衆に義務づけ、キリシタン
ではないことを寺院に証明させるもので、必然的に民衆
は寺請をしてもらう寺院の檀家となりました。

つまりこれは、江戸幕府が仏教を国家宗教として公認したと
言っていいものなんです。寺請証文がなければ人別帳に
記載されず、もしなければ、転居や旅行の自由がいちじるしく
制限されました。また、葬儀などは必然的に仏式になります。

寺請証文
kjhy

で、この制度でずっと幕末まできたんですが、明治新政府となり
1868年に「神仏分離令」が出されます。これは政教一致の
理想のもと、古代のように神式の儀式と政治を天皇を中心に
一体化(国家神道)させようとしたもので、それまで
広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止したんです。

このとき、僧侶の妻帯や肉食は自由(勝手)とされました。
これはつまり、もう国家は仏教寺院のめんどうはみないよ、
ということです。その後に起こったのが廃仏毀釈。仏像や
仏具、寺院が破壊され、僧侶は弾圧、還俗することを
強いられたんです。

dcv

廃仏毀釈は1868~1876年まで全国でくりひろげられ、
寺院と僧侶の数は激減しました。江戸時代にあった寺院
9万が半分の45000まで減ります。ただまあ、全国的には
濃淡があり、激しい地域と、そうでもなく、神仏分離だけだった
地域があったんですね。

もっとも激しかったのが維新軍であった薩摩(鹿児島)で、
1066あった寺院はすべて破壊され、1874年の時点で僧侶の
数は0になっています。さて、では、どうして廃仏毀釈が
起きたか、事情は上に書いたとおりですが、

長い間の仏教による民衆の支配があったため、立場が
安定するとともに堕落が始まり、修行や学問をおろそかに
する僧侶も多くなりました。それと、神仏混淆の中で、
僧侶にしいたげられていた神官の恨みも大きかったんです。

燃やされる仏像・仏具・経典
っかd

それと、幕末の国学の隆盛。国学を一口に言えば、日本の
ものは素晴らしく、外国(主に中国)のものは、日本には
合わない、まことの教えではないものとされました。これは
インドから中国を通じて渡ってきた仏教も例外ではありません。

廃仏毀釈のムーブが最初に起きたのは、比叡山の麓にある
日吉大社。ここはずっと比叡山延暦寺の支配下にあり、
それを恨みに思っていた神官たちは武装し、「神威隊」と
名のって僧侶を追い出し、仏像や経典に火をつけました。
そしてこれが全国に波及していくわけです。

首を落とされた地蔵


奈良の興福寺では、千体仏をふくむほぼすべての仏像が
割り裂かれて焚き火にくべられ、五重塔にも火がかけられそうに 
なったんですが、なんとか残りました。またこのとき、
仏の使いとされていた多数の鹿も、保護がなされなくなり、
民衆の中には、狩ってすき焼きにして食べたという者もいました。

廃仏毀釈は、特に京都と奈良で激しかったんです。こう書くと、
え、今でも京都にはお寺がたくさんあるじゃない、と言われ
そうですが、幕末に比べれば激減しています。現在の
新京極通りや花見小路も全部お寺だったし、かろうじて残った
清水寺も、寺領を10分の1に減らされました。



ですから、現在みられる仏寺や仏像などは、なんとか毀釈を
まぬがれたものなんです。あ、そうだ、ちなみに
「毀釈」の毀は壊すという意味で、釈は釈尊、お釈迦様の
ことなんです。日本の天皇は釈迦よりも上ということ。

ということで、廃仏毀釈について、ざっと見てきました。
自分の考えでは、もっとも毀損されたのは仏教の精神性ですね。
1872年の「妻帯肉食自由」の令、これは僧侶に戒律を
犯させようとするもので、これにより僧侶が民衆に
尊敬される根源が失われてしまいました。

興福寺の鹿
dsv

僧侶は世俗を離れて学問に打ち込むからこそ尊ばれたんですが、
僧侶が結婚して子孫を残すことにより、寺の世襲が始まり、
また国の保護がなくなったたので、食っていくための
方策として、あれやこれやで金稼ぎをすることになり、
葬式仏教という批判も生まれました。

さてさて、以前に「現代仏教はどこへ行く」という記事を
書いて、自分としてはかなり批判的な内容だったんですが、
今の坊さんたちには布教や修行の情熱があるんでしょうか。
かなり危ういと言わざるをえません。では、今回はこのへんで。