前に「仙道・道教について」という項を書いて、わりと評判がよかったので、
その続きです。みなさんは仙人というと何を連想されるでしょうか。
やはり、「不老不死」と答える方が多いんじゃないでしょうか。
これ、老衰や病気では死なないということで、
仙人でも事故で死ぬことはあるようですし、殺されることもあります。

「仙界」のイメージ
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あと、仙人は不老なわけですが、これ自体はあまり意味がないようですね。
外見は、白い髭の老人であったり童子の姿であったり、好みによって、
自在に変えることができまして、男性は重々しいのが好きなのか、
老人姿が多く、女性の仙人はさすがに老婆姿は好まないようで、
自分が最も美しい時代の容姿をしていることがほとんどです。

さて、仙人は道教の神として信仰されているわけですが、
特に有名な8人を八仙と言います。これは、ジャッキー・チェン映画の『酔拳』
に出てくる酔八仙と重なっている場合もあり、下図のような方々です。
なんか見たことがある絵柄ですが、日本の宝船そっくりですね。

女性が(日本では弁財天)が一人混じっているところも似ています。
これは『東遊記』という書物に出てくる、八仙が東海に遊びに出かける場面で、
掛け軸などで見ることが多いですね。『東遊記』は『西遊記』と同じような、
荒唐無稽な話で、孫悟空(斉天大聖)も出てきます。

『八仙図』


八仙すべてを紹介している時間はないので、今回は呂洞賓(りょ どうひん)

に登場してもらいましょう。 唐の貞元14年(794年)永楽鎮生まれ。

父や祖父の役職もわかっていて、わりに新しい時代の人です。

仙人の中には、数千年前の中国の神話時代の人もいれば、
宋の時代(12世紀頃)の人もいて、新旧入り交じっています。

「邯鄲(かんたん)夢の枕」と「黄粱(こうりゃん)の夢」という
故事成語はよく似た話で、日本でも有名です。その登場人物には、
さまざまな人があてられていますが、この呂洞賓もその一人です。
彼は幼い頃から聡明だということで評判だったんですが、
中国では官吏になるためには科挙を受けなくてはなりません。

科挙の合格発表(清代)
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これはまあ、公平な制度ですが極めて難しく、二度落第してしまいます。
父親は刺史(警察長官のようなもの)にまでなった人ですので、プレッシャーは

大きく、唐の長安の酒場でヤケ酒を飲んでいると、一人の道士が話しかけてきます。
道士は呂洞賓に才能(仙骨)があるのを見て取り、修行を勧めてきたわけです。
しかし、まだ立身出世に未練があった呂はこれを断ります。

やがて、食事をしようと粥を煮はじめたところで、呂は酔いからうたた寝して

しまう。そしてその夢の中で、科挙に及第し、みるみる出世して嫁も貰い、
時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、
運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信用をとり戻したりしながら栄華を極め、
賢臣の誉れを得る。子や孫にも恵まれたが年齢には勝てず、

多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ・・・ここで目が覚めると、
そばには道士がいて、まだ粥の黄粱が炊きあがってはいなかった・・・
こんな話ですよね。わずか数分のうちに自分の一生の
喜びから苦しみまで、微に入り細にわたってすべて見てしまったんです。

呂洞賓


で、まあ当然、人の世の儚さを悟るわけです。そこで道士に弟子入り
したいと頼み込みますが、道士は自分で話を持ちかけたくせに、
呂洞賓に十の試練を与えると言います。このあたりは、
芥川龍之介の『杜子春』とよく似ているんですが、中国には、ある人物が、
どうやって仙人になったか(道心を得たか)という物語がありまして、

杜子春はその中でも失敗談に入ります。最終的に仙人になれなかった
わけですから。ただ呂洞賓の場合は、杜子春とは違って、
日常生活を送る中でいつ試練が来るかわからない。
この十の試練全部を書くと長くなりますので、興味を持たれた方は、

Wikiの「呂洞賓」を検索してみてください。いくつか抜き出してみると、
第一試 ある日、洞賓が外出し戻ってくると、家族全員が病死していた。
彼は嘆くことなく淡々と葬儀の準備をした。しばらくすると、
死者はみな生き返ったが、呂洞賓はまったく怪しまなかった。

『杜子春』
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第五試 洞賓が山中の道舎で読書をしていると、突然、妙齢の
絶世の美女がやってきた。母の元から帰るところなのだが、日が暮れて
しまったので休ませて欲しいという。夜になると女性は何度も誘惑したが、
洞賓は最後まで心を動かさなかった。女性は三日経った後、去っていった。

第七試 ある日、洞賓は街で銅器を買って帰ったが、見るとそれはすべて
金でできていた。ただちに銅器の売り主を探し、これを返した。
第九試 洞賓は大勢の人々と共に河を渡っていた。しかし中流に至ると
河が氾濫し、風が激しく吹き荒れ、荒波がどっと押し寄せた。
人々はみな恐れおののいたが、洞賓は端坐し動かなかった。

こんな感じです。第一試は家族に対する情愛の念を捨てること。
第五試は色欲を断つこと。第七試は金銭欲をなくす。
第九試は自分の命への執着を捨てる。
なかなかできることではないですよねえ。あと面白いのは第二試。

呂洞賓を祀る台湾の廟


ある日、呂洞賓が市へ物を売りに行きその値段を決めたが、
相手が前言撤回し、値段の半分しか払わなかった。しかし、
洞賓は何も言わなかった。 というやつで、これは唐の時代の話ですが、
現代でも中国の市場でよく見られるような光景です。あまり変わってないんですね。
これらの試練をはねのけ、呂洞賓は道士の弟子になって修行を開始するんです。

さてさて、これ、自分を捨て欲を捨て、命さえも惜しまないというのは、
仏教の無常観と似たところがあります。ただし違うのは、
仏教では因果からの解脱が目的であるのに対して、道教の場合、
あくまでも生きたままこの世にとどまり、
仙界と人界を自在に行ききすることにあります。

これらの仙人は、いまだに雲の上を飛び回っているということですが、
その永劫にも近い時間は、自分という意識や我欲があっては、
耐えることができないんです。日本の久米仙人は若い女のふくらはぎを見て
雲から落ちてしまいましたが、仙人になっても

修行を怠るとそういうことになります。不老不死は、

ほぼすべての人間的な欲望を捨てる見返りとしてあるんですね。

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