もうずいぶん昔のことです。あれは中学校1年生のときでしたね。
この話、信じてもらえますかどうか・・・
私、月に行ったことがあるんです。ええ、夜空に浮かぶあの月ですよ。
え? ああ、アポロ宇宙船の月面着陸よりは後のことです。
2年後になるのかな。あのアポロ計画のおかげで、当時は日本でも
天体好きの少年が増えたんですよ。私もね、親に無理を言って、
誕生日のプレゼントで天体望遠鏡を買ってもらったんです。
といっても、子ども用のオモチャみたいなやつでしたが。
そうですねえ、高校生になった頃までは実家にあったと思いますが、
その後どうなったのか。大学生になって女の子に興味を持っちゃって、
天体はどうでもよくなっちゃたんですよね。

あ、話がそれてしまいました。でね、天体望遠鏡は、最初、
家の物干しに出してみたんです。でも、近隣の家がじゃまで、

空のほんの一角しか見えなくて。かといって、屋根に登れば
危ないって怒られますし、困ったあげく、近くの空き地に持ち出して

空を見てたんですよ。え、のぞき? いや、まさか。
当時はほんの子どもで、そんなことは考えつきもしませんでした。

もっぱら、見てたのは月です。だってほら、さっき言ったように
オモチャみたいなもんですから、金星や火星を見たって、ただの光の
点なんですよ。まともに何とか見えるのは、お月さまだけで。でね、
その頃はまだ小学生だったんで、夜に外に出るのは親が心配して、観測の
時間は、夕食後の8時から8時半までの30分間って決められてたんです。


でも、買ってもらって1ヶ月ぐらいは、ほとんど毎日外に出てましたよ。
で・・・6月のある日のことです。その夜も、空き地の草むらに望遠鏡を

立てて月を見てました。やっぱり月は近いから、クレーターらしいものも

うっすら見える気がしたんです。アポロの着陸船が見えないかなんて
思ってましたが、今考えればそんなはずないですよね。そうやって夢中で
望遠鏡をのぞきこんでると、「おおい、坊や」突然声をかけられて、

飛び上がるくらい驚きました。そっちを見ると、
空き地の外の道に、背の高いおじいさんが立ってたんです。
うーん、当時はおじいさんだと思いました。だって髪が真っ白でしたから。
でもね、顔にはほとんどシワがなかった気もするんですよね。
それで、白っぽい浴衣みたいなのを着てたのを覚えてます。

そのおじいさんが、「坊や、いいもの持ってるね。何を見てるんだい?」
って聞いてきたんで、「月です」って答えました。
そしたら、「へええ、月ねえ。どうして直接 行かないんだい?」って。
これね、さすがに子どもをからかってるんだろうと思ったんですが、

「宇宙船に乗らないと行けません」って返事しました。そしたら、
「おやそうかい。でもねえ、月ってこの町内とつながってるはずだよ」

「冗談ですよね」って私が言うと、おじいさんはにやにやと笑って、
「その望遠鏡、反対にしてのぞいたらどうなるんだい?」って聞いたから、
「それだと実物より小さく見えるんです」って律儀に答えました。
おじいさんは「ほーそうかね、でもね、いっぺん見てごらんよ」
こう、からかうように言って、ずっとこっちを見てるんで、

「じゃあ」って望遠鏡の向きを反対にして月に向け、のぞいてみました。
当然、真っ黒で何も見えなかたんだけど、「やっぱ、見えないです」
っておじいさんに言ったら、おじいさんがエヘンって大きな咳払いをして、
そしたら、望遠鏡の穴に顔が映ったんです。それ、当時、
小学2年生だった弟の顔でした。しかも、かたく目をつぶって涙を流してる・・・

「あ!?」と思って目を離し、おじいさんのほうを見ると、おじいさんは
笑いながら、「弟さんかねえ、弟さんに月の石を持ってってやりなよ」

そう言って、私に向かって手をバイバイと振り、歩き去っていったんです。
それから、少しして家に戻りましたが、両親はテレビを見ていて、
弟は?って聞いたら、熱っぽかったのでもう寝かせたって言われました。
その頃は、私は2階の自分の部屋で寝ていて、弟は両親といっしょでした。

翌日の朝ですね。起きていくと、仕事してない母が着替えてて、私に、
弟の熱が下がらないから、病院に連れてくって言ったんです。
「僕は?」って聞くと、「お前は学校に行きなさい。もし、帰ってきても
私がいなかったら、夕食を用意しておくから食べて待ってなさい」って。
それで、いつもどおり自転車で出かけたんです。で、授業が終わって、

私は陸上部に入ってたんですが、弟のことが心配だったんで、部活を休んで
早く帰ったんです。4時頃でしたよ。1年でいちばん日の長い季節で、まだ
昼と同じくらい明るかったんですが・・・ 自転車で家まで15分くらいでした。

それが、かなり急いで漕いでたのに、いつまでも家に着かなかったんです。
それどころか、なぜかどこを走ってるかもわからなくなって・・・
確かに家の近くの住宅街なんですが、ぜんぜん見覚えがない道でした。

おかしいなあ、迷うなんてありえない。そう思って走ってると、
道の両側の家がペラペラになってきたんです。これ、うまく説明できないです。
だんだん立体感がなくなったっていうか、お芝居のセットの書割みたいになって、
現実感がないというか。それに、道で車にも人にもすれ違わないし・・・
そこでいったん止まったんです。そしたら、空が急に暗くなりました。
でも、夜ともまた違って、足元の地面が白く明るかったんです。
しかも、舗装道路だったのが、いつの間にか細かい砂地になってて、
「え?え?」と思ってると、書割のような家々から、真っ黒な人が出てきました。
あっちからもこっちからも、ぞろぞろと。その人たちはシルエットになってて
顔も服もわからなかったんですけど、白い地面からの照り返しで、
黒じゃなくて濃い緑色だってわかりました。

そんな人たちが何十人も出てきて、私のほうを指さして、だんだん集まってくる。
怖くなって、自転車で走り出しました。前方にも出てきた緑の人の中を突っ切って

走ってくと、両側の家が途切れて、広い広い砂漠に出たんです。で、信じて
もらえますかねえ。空に巨大な青いものが浮かんでたんですよ。あれ・・・
地球だったと思います。緑のやつらはもう追いかけてはきませんでしたけど、

どうしたらいいのか途方にくれました。そのとき、昨夜空き地であった出来事を
思い出したんです。ええ、あのおじいさんの「弟に月の石を持ってってやれ」
って言葉です。それで、自転車から下りて、そこらにいくらでも落ちてる
粉っぽい石を一つ拾って、ズボンのポケットに入れました。
そこからは記憶があいまいなんですよねえ。かなり長い距離を、
自転車で走った気がするんですが、気がついたら家の前にいたんです。

で、鍵を出して入ろうとすると、ちょうど父が車で帰ってきまして、
「早く乗れ、〇〇(弟)が大変だから病院にいくぞ」って言われて、
そのまま大学病院に行ったんです。母が最初に連れてった開業医から、
そっちに移されたみたいでした。で、車の中で父からいろいろ話を聞かされて、
弟はウイルス性脳炎というのになってて、朝からずっと40度の熱が続いてる
ということでした。病院に着いて、急いで小児病棟に入ると、
弟は個室で寝かされてたんですが、点滴を何本も刺し、顔が真っ赤で、

ハアハア荒い息をしてました。ベッドの脇には、母が半泣き状態で
ついてたんです。それで、苦しがってる弟の顔が、前の日の夜、
望遠鏡で見たのと同じで、ああ、死んじゃうのかもしれないって思いました。

でね、ポケットの中にある月の石ですよ。
 

あれを取り出して、ベッドの横に回って、点滴をしてないほうの手にそっと
握らせてみたんです。そしたら、石はスーッと溶けるようになくなったんです。

で、それで弟が劇的によくなったというわけじゃないんですが、
毎晩、両親とも弟の病室に泊まり込んで、私を世話するために、
父方の祖母が家に来てくれました。で、2週間ほどもかかって、
弟の熱は下がり、心配されてた後遺症もほとんどなかったんですよ。
まあ、こんな話なんですが、当時は中1でしたからねえ。

夢と現実がごっちゃまぜになってるのかもしれません。そこはなんとも
言えないんですけど、今でも月を仰ぎ見るたびに、ああ、あそこに

行ったのかなあなんて考えます。え? そのおじいさんですか?

あれ以来、一度も見てないですね。本当にいたとしたら、何者だったのか・・・


 

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