西王母

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今回はこういうお題でいきます。古代史の話です。西王母というのは中国の古い女神なんですが、日本の邪馬台国の卑弥呼とは深い関係があるかもしれないんです。ちなみに、自分は邪馬台国=近畿説なので、もしかしたら九州説の方は気分を害されるかもしれません。
 
それから「女神」は「めがみ」ではなく、「じょしん」と読みます。ではいってみましょう。まずは西王母から。西王母は前10世紀頃から甲骨文に出てきており、『山海経』などで記述されています。『山海経』は前4~前3世紀頃に中国でまとめられた書物です。
 
蟠桃
 
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この頃の中国には、まだ道教という概念はなく、神仙思想における女神と言ったほうがいいでしょう。その姿は恐ろしく、豹の尾と虎の歯を持ち、乱れ髪にかんざしをつけているとされました。この頃は災厄を司る女神だったんですが、だんだんと時代を経るにしたがって、その姿は美しく優美なものに変わっていき、
 
道教に取り入れられて、最高位の女神として不老不死を司るとされました。西王母は「西方にある崑崙山上の天界を統べる母なる女王」という意味で使われています。さて、まずは西王母と桃の関係から。桃のうち蟠桃という種類は中国で古くから食べられてきました。
 
桃を投げるイザナギ
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で、西王母は神々の桃園を管理しており、その桃を食べると不老不死になるとされていました。明代の小説ですが、『西遊記』の中での西王母は、3月3日が誕生日で毎年祝宴を開いており、それがもとになって桃の節句ができたとされています。
 
そこに、ただ一人だけ招待されなかった孫悟空がのり込んで大暴れするという描写が出てきますね。桃というのは古代から神秘性のある食べ物だったんです。日本でも『古事記』では、イザナギの神が、黄泉の国から死者となったイザナミに追われ、桃の実を投げて逃れたということになっています。
 
奈良県 纏向遺跡から出土した桃種
 
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さて、邪馬台国ではないかともいわれる奈良県桜井市の纏向遺跡では、2010年、遺跡内の大型建物の近くから西暦135~230年頃のもの(C14年代法)とされる大量の桃の種が出土しています。これらは人為的に栽培されていた可能性があり、祭祀に使われていたと見られます。
 
で、卑弥呼の墓という説がある、同遺跡中の箸墓古墳の被葬者は、記紀では倭迹迹日百襲姫命とされていますが、これは「ヤマトトトヒモモソヒメ」と読みます。どういう意味かよくわかっていませんが、「モモ」という言葉を中に含んでいますね。
 
ここまでで、桃を間にはさんで、西王母と倭迹迹日百襲姫命の間につながりがあるのではないかという疑問が出てきます。じつはつながりはまだあります。近畿地方でよく出土し、魏朝からもらった卑弥呼の鏡ではないかと言われる三角縁神獣鏡の文様には、いく匹かの神獣と東王父、西王母の2人の神仙が出てきます。
 
三角縁神獣鏡の東王父と西王母
 
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東王父は西王母と対になる、東方の蓬萊山などを統べる神です。では、この頃の近畿でなぜこのような鏡の文様が好まれたのでしょうか。すでに神仙思想や道教が伝わっていて信仰されていたのでしょうか。それはわかりませんが、東王父と西王母が並び立つ姿は、卑弥呼と、国を治めるのを助けたとする男弟の姿をほうふつとさせます。
 
では倭迹迹日百襲姫命には弟はいたのか? これはいました。倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女ですが、その弟は吉備津彦命で、民話の桃太郎のモデルになったと言われる人物です。
 
以前から、大和国と吉備国の様々なつながりは指摘されており、箸墓古墳では吉備で始まった特殊器台による祭祀が見られます。吉備国の名産はきびだんごですね。では、最大の疑問、倭迹迹日百襲姫命と卑弥呼のつながりは? 確証がないのではっきりしたことは言えませんが、ここまで桃を間にしての関係は偶然でしょうか。
 
倭迹迹日百襲姫命と弟の吉備津彦命
 
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自分にはそうとは思えないですね。魏志倭人伝には「(卑弥呼は)鬼道をもって衆を惑わす」と出てきますが、この鬼道というのは道教のことなのかもしれません。教団道教が始まったのは1世紀の頃なので、公孫氏などを通じて日本に伝わっていても不思議ではない気がします。それとも、それ以前の神仙思想の段階からでしょうか。
 
さてさて、ということで、桃を通じて、西王母と卑弥呼、倭迹迹日百襲姫命の3人の関係を見てきました。もしかしたら古代史に興味のない方には退屈だったかもしれません。みなさんはどう思われるでしょうか。では、今回はこのへんで。
 
箸墓古墳
 
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