今晩は。じゃあ、私の話を始めます。娘が5歳になるんです。
ええ、子どもは娘だけです・・・今のところは。一昨年の夏ころからです。
熱を出すようになって、なかなか治らなくて。近くの開業医に
連れていってたんですが、そこの先生が、「これはおかしい」って言われまして、
大学病院に紹介状を書いてくれたんです。ええ、県にある国立大学の病院。
20万人に1人くらいの割合で起きる難病ということだったんです。
結局、地元の病院では治療のための設備がなくて、東京の病院を紹介されました。
東京の病院には、その病気の権威の先生がいて、設備も整ってたんです。
子どものための無菌室ですね。ただ、東京に行くのは大変でした。
私は小学校の教員をしていて、娘の面倒は近くに住む母が見てくれることが
多かったんですが、さすがにこれは頼むわけにいかず、
休職せざるをえませんでした。治療費のほうは、娘の病気は難病指定でしたし、
夫が家族を含む医療保険に入っていたので、そう心配はなかったんですが、
ええ、抱きしめることもできなかったんです。毎日病院には行きましたが、
面会の時間の終りがくると、娘はしくしくと泣き出しまして、
かわいそうでたまりませんでした。さきほど言いましたように、
いつ退院できるのかもわからず、先の見通しが持てなくて、
私自身も不安でしかたなかったんです。ただ、そこで友達ができました。
娘さんは、先天性の免疫不全。ですから、産まれてすぐに無菌室に入り、
もう3年になるんです。娘が病気になってまだ1年足らずでこんなに大変なのに、
いつも明るくふるまっていて、芯の強い人だなあって思いました。
娘とは違う病気でしたが、その病院のことはよく知っていて、
いろいろと教えてもらいました。それだけじゃなく、
小児病棟のデイルームや、1階に入ってる喫茶店で、いろんな話をしました。
学生時代にも、こんなに一人の人と親しくなることはなかったんですよ。
「ねえ、この病院の小児病棟に怖い話があるんだけど、そういうの聞きたい?」
「あ、聞きたい。でも、病院ってどこでもそういうのあるんでしょ」
「他のことはわからないけど、この病院のは「顔のない看護婦」って言うんだって。
私も他のお母さんから聞いたんだけど」 「いかにもな名前ねえ」
「でも、怖い話なのよ。この看護婦は、入院してる患者には見えないか、
もし見えたとしても何もしないんだって」
「じゃあ、誰に見えるの?」 「つきそいをしてる家族」
「どういうこと?」 「ここの病院、長期入院してるお子さんばかりでしょう。
しかも、家族は泊まり込みでつきそいをしなきゃならないこともある。
「ええと、のっぺらぼうってこと?」 「そうね。で、その看護婦は、
こう聞くんだって。お子さん、いりますか? いりませんか?って」
ここまで聞いたとき、急に背筋が冷たくなりました。
「・・・実際に見た人っているの?」 「いないと思う。だけど、この話は、
ずっと小児病棟に伝わってるみたい。知ってる人が何人もいたから」
「・・・・」ここまで話したとき、喫茶コーナーに瀬田さんのご主人が
入ってこられたんです。ご主人は都庁に勤めてられる方で、
瀬田さんよりも年下だって話を聞いていました。
「じゃあ、またね」瀬田さんはご主人といっしょに出ていかれ、
私はその場に残って、今聞いた話を思い返して、あらためてぞっとしたんです。
それから2ヶ月がたちました。私はもちろん、毎日娘に面会に来てましたが、
病状は改善せず、どんどん痩せて小さくなっていく娘を見るのがつらくて
しかたなかったです。瀬田さんは、それまでは毎日来てたのが、
ときどき顔を見せない日があるようになりました。
ええ、会えばいつも話をしましたが、あるとき瀬田さんがぽつんと、
こんなことを言ったんです。「私、2人目ができたみたい」って。
「えー、大丈夫、産むの?」 「わからない、でも、夫は産んでほしいみたい」
でも、実際には無理じゃないかと思ったんです。それから1週間ほどして、
安定していた瀬田さんの娘さんの具合が急に悪くなったんです。
ええ、ご主人をはじめ、親族の方が何人も来られて、病室に入っていました。
亡くなったのは集中治療室だったので、瀬田さんとは会うことができず、
そのことは看護師さんに教えていただいたんです。
葬儀などで忙しかったんだろうと思います。2週間ほど後、瀬田さんは病院に
あいさつにみえられて、そのときに少しだけお話しました。
私は、なんと声をかけていいかわからなかったんですが、
瀬田さんのほうから、「娘さんの治療あきらめたらダメ、必ず治るから」
こう励まされて、私はただ深く頭を下げるだけでした。
瀬田さんは最後に、「2人目産むことにした」そう言って私の腕に軽くふれ、
病院を出ていかれました。その後、1度もお会いしていません。
それから2ヶ月たって、娘の容態が悪化しました。
私は毎日、毎晩病院に詰めていましたし、夫も仕事を休んで来てくれました。
娘の容態は一進一退で、そのたびに夫婦で一喜一憂する日が何日も続きました。
疲れ切っていましたが、そんなことは言っていられませんでした。
でも夫は、私の体調のこともすごく心配してくれたんです。
夫は、1日だけどうしても会社に顔を出さなくてはならず、
私はそれを下まで見送って、1階の待合ロビーの椅子に腰を下ろしました。
面会時間を過ぎていて、ロビーに人気はありませんでした。
「まさか」でも、おそるおそる見上げた顔には目も鼻も口もありませんでした。
まとめた髪と、ただ真っ白い紙粘土のような輪郭があるだけ。
私は息をのみ、声を出すこともできません。
看護婦は感情のない冷たい声で、「娘さん、いりますか? いりませんか?」
私はすぐ、「いります。絶対に死なせない。治してみせます」
叫ぶようにそう言ったつもりでした。
そのとき、看護婦の顔がぐにゃりとゆがみました。
ええ、まるで粘土を上から押しつぶしたみたいに。そして、たくさんの顔が
次々にそこに浮かんできたんです。10人、20人・・・
すべて疲れ切った、悲しそうな女の人の顔。その最後に出てきたのが、
瀬田さんの顔だったんです。はっ、と我に返りました。
ええ、私の横には誰もおらず、気配もありませんでした。
疲れている中、瀬田さんから聞いた話が頭に残っていて、幻を見たんだろうと、
今では考えています。このことは夫には話しませんでした。
娘の病状は小康を得ました。ですが、いつまた悪化するかわからず、
病院側から、造血幹細胞移植の提案を受けました。生命の危険のある治療ですが、