今はもうコンクリートの護岸とテトラポッドに埋め尽くされて
しまいましたけれど、そこらの浜がまだごつごつした険しい岩礁だらけ
だった頃の話ですから、もう40年以上も前になります。当時は、

あの岬の突端には小さな神社があって、かえし神社と呼ばれておりました。

この港の有力者が代々神主でしたが、
ふだんから常駐しているわけではありません。

場所が場所ですから台風の度に大破して、修理をするのは毎年のことでした。

ですから神社の社殿は、新しい木、古い木であちこちつぎはぎだらけになり
お世辞にも立派といえるものではありませんでした。

歳の例祭は一度だけ、お盆直前の8月12日の夜から未明にかけて
行われました。これに出ることができるのは限られた者だけで、

そもそも行われない年のほうが多かったでしょう。
 

なぜこのお祀りが行われるのか、誰もわかっているものは
おりませんでしたが、その浜一帯が呪われているからだ、
という話はありました。わたしも、このお祀りに中学2年のとき
一度だけ参加したことがありまして、そのときの話をしたいと思います。


朝からばたばたと風が強く、波も高くうねっておりました。
とはいえ南国ですので、気温は高く、
むしむしとした日であったと記憶しています。
今回のお祀りに参加するのは、わたしのところも含めて4家族で、
人数は15人内外といったところでしたか。
朝から精進いたしまして、生臭ものは一切食べません。

それからお盆の先祖をお迎えする準備というのもいたしません。
それはこの祀りが終わってしばらくたってからになります。
昼過ぎになると神主を務める浜の網元の屋敷に一家そろって顔を出し、
酒焼けした赤ら顔に装束をつけて神妙な様子の親方に、
軽トラに積んできた酒、米、塩をそれぞれ一斗ずつさしあげ、
その代わりに護符の束をいただいてきました。
護符は今夜の祀りになくてはならないものなのです。

その帰りがけに岩場に寄りました。
父親が「ひとり十ほど、手頃な石を選んどけよ」と言ったので、
自分と母親、それに80歳を過ぎたばあさまも、
握りこぶしより少し大きめの岩を拾ってそれぞれ籠に入れました。
祀りの手順については何度も説明を受けていたのです。

ばあさまはもちろん、母親も持てない重さになったので、
その籠は父親が持ってトラックに積み込みました。
そのあと家に戻って禊ぎをしました。当時はまだ、
井戸水を使用していましたので、自分と父親は庭にたらいを出して、
母親とばあさまは風呂に水をくみ入れて身を清めました。

そのまま白装束に着替え、夕飯は食べずに夜を待ちながら、

みなで石に護符を米糊で貼りつけました。神社に向かうのは
11時の予定でした。今に家族そろって座っておりましたが、

沈黙にたまりかねたように母親が泣き出したのを、父親が短く強い言葉で
たしなめました。ばあさまを見ると、声を出さずに涙を流していました。

10時半過ぎに家を出ました。朝からの風はいっそう強くなって
きていましたが、この時期に漁に出ている船はありません。
岬の神社までは歩いて20分ほどでした。
父親が石の籠を二つ、わたしが一つ持ってゆっくり歩いていきますと、
神社の前に焚いた篝火が見えてきました。
他の3家族の人たちはもう来られていました。

去年の冬に漁船の沈没があり8人の漁師が亡くなったのですが、
その中でまだ遺体の発見されていないご家族でした。
その他の人の姿はありません。
この夜は外に出てはならないしきたりなのです。
父親はそれらの方と低い声で挨拶を交わし、岬の突端へと歩み出ました。

そこには網元が準備させた、人の頭ほどの岩が十ずつ何列かに並べられており、
父親は、その中のまだついていないものに護符をはりつけていきました。
それから30分ほどして、神主が姿を見せました。
月が出ておりましたので、15mほど下の水面が
かろうじて見える程度の明るさがあり、崖下の岩礁から少し離れた海の中に、
急ごしらえの小さな鳥居が立っているのが見えました。
鳥居から崖の上まで、細い石段が続いていました。

神主はこちらには目もくれず海面をにらんでいます。
網元としての豪放な顔はもうどこにも見えず、
緊張で頬がひきつっているのがわかりました。
岬の先端に立って、用意してあった榊の枝を上下逆に持って何度か振り、
口に酒を含んで海面のほうに向かって吹きかけました。

おもむろに懐から呪言の書かれた和紙を取り出し、朗々と唱え始めました。
ごうごうと風が強くなってきました。わたしは、
ずっと海の中の鳥居を見つめていましたが、
その下で渦巻く波の中に、何かが見えたような気がしました。

「きなさったぞ!」と神主が叫びました。
「きなさったがまだだ、鳥居をくぐられてからだぞ、お帰りいただくのは」
海の中から手が伸び鳥居の柱を掌で叩いていましたが、がしりとつかんで
体を引き上げました。亡くなった漁船の船長でした。
水死体でもなく腐敗してもおらず、
全身ずぶ濡れになっている以外は生きたままの姿でした。

船長が腰をかがめるようにして鳥居をくぐり出ると、
その家族たちが崖の上から石を投げ始めました。
もう一人、さらにもう一人が海から出て鳥居をくぐりました。
3家族の十数人が横に広がって石を投げ、外れるものが多かったのですが、
いくつかは頭頂部や背中に当たり、血しぶきが黒く上がるのが見えました。
家族の嗚咽が聞こえてきました。

「もうお帰りください!家族の顔を見て満足されたでしょう。
もうお帰りください」神主が叫び、他のものが声を合わせました。
海面から細い手が出てきました。今年の5月に波にさらわれた9歳の妹です。
父親が半狂乱になって妹の姿を探していた姿が脳裏によみがえってきました。
姿が見えなくなったときの、黄色いワンピースを着ているようでした。

妹がするんと細長い魚のように鳥居をくぐったとき、
父親の投げつけた石が上向きの顔の真ん中に当たり、
たちまち黒く汚れて表情が見えなくなりました。
「お前らも投げろ!あれは本当の〇〇ではない。そもそも人間じゃない!!」
父親が叫びました。母親が泣きながら石を投げましたが、
かろうじて崖から落ちただけでした。

わたしが投げた石は、斜面を何度もバウンドして妹の左手に当たりました。
ひとしきり手元の石を投げて、4人の死者が段のいちばん下に
重なってしがみついているところに、
神主が並べてあった岩を転がし落とし、みなもそれにならいました。
岩は階段とその脇を転がり落ち、
死者の一人がそれを抱いた形で海に落ちました。

もう一人も二つ並んで落ちてきた岩に跳ね飛ばされ、
次に、おそらくわたしが転がした岩が妹の立ち上がろうとした膝下にあたり、
両手を広げてのけぞる形で真後ろに倒れていきました。
そのとき見えた砕けた顔からは、表情を読み取ることはできませんでした。

やがて最後の一人が海に落ち、海面は波ばかりとなりました。
神主がまた朗々と呪言を唱え始めました。20分ほども続いたでしょうか。
家族たちのすすり泣きがそこここで聞こえ、神主が、
「ごくろうだった、よくやった」とねぎらってまわる声も耳に入りました。
こうして、この年の祀りはとどこおりなく終わったのです。