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市杵島姫神の本性とされる裸弁天
今回はこういうお題でいきます。なんか長くなりそうだなあ。
祟りの話だけにしぼれば長くはならないでしょうが、
それだと底浅くなってしまいますし、難しいところです。さて、
宗像氏は筑前国に古くからある豪族で、海を支配していました。
代々、宗像大社の宮司を務めたことでも知られています。
ちなみに、仏教では江戸時代まで僧侶は妻帯を禁じられていましたので、
ある宗派、また寺院の長の座は世襲ではなく弟子に受け継がれます。
これに対し、神職にはそういう禁忌はないので、大きな神社の
宮司は、古代からの名族が代替わりして務めていることが多いんです。
このことには深い意味があります。ここで宗像神社の由来。
沖ノ島沖津宮
![](https://blog-imgs-142.fc2.com/s/c/o/scoby/ffgh.jpg)
まず、御祭神は宗像三女神です。女神は「めがみ」ではなく
「じょしん」と読みます。地上から高天原に上ってきた須佐之男命は、
「邪心のないこと」を天照大御神に示すため誓約(うけい)を行い、
そこで5柱の男神と3柱の女神が生まれます。須佐之男命は、
自分から女神が生まれたのは邪心のない証拠であると主張します。
で、この三女神が宗像大社の御祭神なんですが、3ヶ所に別れて
祀られてるんです。古来から「入らずの地」とされている沖ノ島、
沖津宮の田心姫神(たごりひめ)、筑前大島、中津宮の湍津姫神
(たぎつひめ)、宗像田島、辺津宮の市杵島姫神(いちきしまひめ)。
3柱の女神は海洋の守り神で、市杵島姫神は弁財天と習合しています。
筑前大島中津宮
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まずここまでが基礎知識ですね。宗像氏は関門海峡から朝鮮半島、
大陸へと通じる海道を支配し、航海の安全を祈願する強い力を
持った一族だったわけです。それが中世になって家系が断絶し、
豊臣秀吉の九州平定により、所領は没収、改易となります。
この少し前に「山田地蔵の祟り」が始まるんですね。
戦国時代になり、宗像氏は中国地方の覇者である戦国大名、大内義隆
の配下となっていました。1547年、宗像正氏から氏男に家督が
継がれ、第77代の当主になります。それにしても、77代はさすがに
ありえない気がします。氏男は、正氏の一人娘 菊姫を正室として
いましたが、1551年、大内氏の重臣 陶晴賢が起こした大寧寺の変で
宗像田島辺津宮
![キャプチャdf](https://blog-imgs-142.fc2.com/s/c/o/scoby/20210117124728386.jpg)
大内義隆が自害した際、義隆に仕えていた氏男も討死します。
このため、家督を誰に継がせるか、氏男の弟の千代松をおす派と
正氏の庶子、鍋寿丸(氏貞)をおす派とに分かれて
家督争いが起きます。まあ、このあたりは戦国下剋上の世、
どこにでもあるような話なんですが。
ここで実権を握っていた陶晴賢は、陶氏と血縁関係の鍋寿丸を支持し、
強引に鍋寿丸を宗像氏の白山城に入れ、当主とします。そして翌年、
反対派である氏男の妻 菊姫、正氏の後室で菊姫の母 山田局 、
菊姫の侍女4名が暗殺されます。菊姫は18歳。
陶晴賢
![キャプチャ](https://blog-imgs-142.fc2.com/s/c/o/scoby/2021011712472229f.jpg)
その後、館の後ろの山の端の下に穴を掘り、菊姫親子を一緒に埋め、
死んだ侍女4人もその近くに埋めたとされます。 また、
千代松の母 弁の前は千代松を連れて身を隠していましたが、
生かしておけばいずれ災いになると考えた氏貞派により母子ともに
殺害され、その場所に2人の亡骸を埋めて目印の松を植えた。
ここから祟りが始まります。事件の七回忌の年、氏貞の妹、色姫が
母と一緒に双六をしていたとき、突然髪をふり乱し「我は正氏の妻なり」
と言い出し、自分(山田局)と娘(菊姫)を殺したことを責めて
母の喉に食いつき、近習が大勢で引き離すも錯乱が続き、
その日、氏貞派であった家臣が一人突然死します。
菊姫ら母子主従の墓
![キャプチャsdf](https://blog-imgs-142.fc2.com/s/c/o/scoby/2021011712473179b.jpg)
また、色姫の狂気は治まりましたが、母親は他の病気にかかり
死去しています。これ以外に、上記の暗殺事件の実行犯であった
野中勘解由、嶺玄蕃の2人も死亡。それ以外にも氏貞派に多数の
死者が出ます。怖いのは、事件にかかわった当人だけでなく、
その親族も次々に死亡していることです。
また、この祟りは500年近い時を経て現代まで続いていて、
祟りの犠牲者は300人を超えるという話まであります。
この事件を仕組んだ大もとである陶晴賢は、その3年後、
1555年の厳島の戦いで、毛利元就の奇襲を受けて自害。
山田地蔵尊増福院
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で、これらは明らかな祟りであり、氏貞は死者の霊を慰めるため、
菊姫ら6人の大法要を営み、領内に56もの寺院を建てましたが、
怪異はいっこうに収まらず、氏貞の死後、後室の才鶴により、
菊姫主従の怨霊を鎮めるためにつくられた6体の地蔵尊が
増福院という寺院に安置されました。
まあこういった話なんです。上記の地蔵尊が、いわゆる
「山田地蔵」です。菊姫の母、山田局の名から取られてるんですね。
上で少し書きましたが、1587年、氏貞が病のため亡くなると、
嫡子も夭折し、嗣子のいなかった宗像家は断絶、
宗像大社の大宮司も79代で途絶えるんです。
増福院の本尊
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さてさて、みなさんどう思われたでしょうか。事件自体はたしかに
悲惨な話ではあるものの、戦国時代は家臣が主家を殺し、
子が父を殺すなんて話はいくらもありますよね。ですから、
もしこの祟りが本物だとすれば、宗像大社の神がかかわっていると
自分には思えてなりません。
最後に珍説をご紹介して終わりましょう。宗像氏は胸形氏とも
書きました。陸から海へ続く、沖津宮、中津宮、辺津宮は女性の
体を現しており、辺津宮がちょうど乳房の位置にあたるといった
話ですが、まあ眉唾というしかありません。では、今回はこのへんで。
海岸線が上から見た乳房の形?
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