霧鏡の話 | 怖い話します(選集)

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場所は都内某所にある怪談ルーム、そこに来た人たちが語った内容 す。

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もう30年も昔、わたしがまだ小学生だった頃の話です。当時、
家があったところはほんとうに田舎で、すぐ裏手まで山がせり出してましてね。
いや実際、大雨の後には土砂崩れを心配していたほどです。
そんなところだから山が裏庭がわりみたいなもんでした。
小学校4年生のときだったと思います。親父と裏山に入っていました。
わたしには弟がいるんですが、そのときはまだ小さかったもので、
よく親父の手伝いをさせられていました。春は山菜、秋はキノコ採りなんかです。
親父は営林署の職員でしたので、日曜日が多かったですね。

秋のキノコ採りだったと思います。
風が肌寒かったのを覚えているので、10月頃でしょうか。
その日も親父と山に入っていたんです。高さは100mもないんでしょうが、
ブナ林が渓流の上にかかる尾根の上でマイタケを採っていました。
木の間から、下のほうに浅く速い流れが切れ切れに見えていましたね。
つまり崖になった上ということです。そんな場所だから、
親父も慎重で、わたしを自分のそばから離しませんでした。
9時過ぎから始めたのが昼になり、収穫が少なかったので、
握り飯を食ってから午後も続けることになりました。

林を出て、崖から渓流が見下ろせる草地に腰をおろし、
親父が背負っていたザックから水筒と飯の入った籠を取り出しました。
そのとき・・・そこそこ晴れていた空が、急に暗くなったんです。
大きな黒雲が頭上に出ていたんですね。
おかしな話で、山では天気がとても重要なので、
そんなのがあればとうに気づいていたはずです。
親父が少し顔をしかめました。雨を覚悟したのだと思いました。
雨具は持ってきていなかったので、林の中でやり過ごすことになるのか・・・

急いで握り飯を食べてしまおうと思いましたが、雨は落ちてはこず、
渓流の谷から真っ白な霧が立ち上ってきました。それもまた
信じられない早さで、わたしたちのいる場所まで上ってきたんです。
低く垂れた黒雲と、足元までひたす白い霧・・・わずか数分の出来事です。
この世のものではない場所に連れ去られてしまったという感じがしました。
親父が立ち上がり、谷のほうを見て「遅かったか」とつぶやきました。
渓流の谷の幅は数十mというところで、
その向こうはこちらよりも低い尾根になっていたんですが、
霧の間からうっすらとシルエットになって見える向こう側が、
いつの間にかこちらと同じ高さになっていたんです。

「ああ、また踏んじまったのか、油断した」と親父が、
今度ははっきり声に出して言いました。
向こうの崖の上に、やはり黒く影になった人の姿が見えました。
一人は立っていて、一人は座っている、大人と子どもの姿だと思いました。
ちょうど私たちの様子を鏡に映したような具合です。
親父が右手を高く上げました。すると、
向こうの崖の上の大人も、まったく同じタイミングで手を上げたんです。
「ああ、やっぱりだ。やり過ごすしかない。霧が晴れるまで動くなよ」
親父が固い声でわたしに言いました。わたしたちが
じっとそのままの姿勢でいると、向こうの影もまた動きを止めました。
そうしているうちに少しずつ、少しずつ霧が晴れてきたんです。

わたしがほっとした顔をしたんでしょう。親父は、「まだだ、
 霧鏡は晴れ際がいちばん入れかわりやすいから」こう強い口調で言い、
「・・・お前、ペンか何か持ってないか」と、意外なことを聞いてきたんです。
わたしが首をふると、「なら、しかたがない。ちょっと痛いが我慢しろ。
 ほんの表面を傷つけるだけだから」こう言って藪払い用の鎌を出し、
わたしの右腕をとって、二の腕の裏側に刃先をあててスーッと引いたんです。
血がにじんできましたが、ごく表層の皮だけが切れたようで、
痛みはまったくなく、くすぐったいくらいでした。
刺し傷や擦り傷など、怪我はしょっちゅうでしたので驚かなかったですが、
なぜ親父がそんなことをしたのかわかりませんでした。

それで親父の顔を見ると、親父は鎌を左手で自分の右腕にあて、
わたしの腕と同じように引いて傷をつけたんです。
そして鎌を持った左手を、大きく上げて振りました。向こう側の
崖の影もそれと同じ動作をしましたが、霧が晴れるにしたがって、
さっきまで黒ぐろしていたのが、だいぶ薄れているように見えました。
「向こうを見るな。ずっとその傷だけ見ていろ。もうすぐ終わるから」
親父がそう言ったので、わたしは、10cmほどの傷のやや深く切れた
ところから、血が玉になって流れ落ちるのを見つめてたんです。

やがて・・・10分ほどたったでしょうか。
霧は完全に消え去り、同時に頭上の黒雲もなくなっていました。
「さあ、もういいから立て」親父はそう言って、
わたしの腕の傷に手ぬぐいをきつく巻いてくれました。
「今のなに?」わたしが聞くと、親父は、「別に隠すようなことでもないから
 教えるが、あれはこのあたりでは霧鏡と言うんだ。
 天気の条件によって、霧にこっちの姿が映ってみえる自然現象だ」
「それで、どうして手を切ったん?」
「・・・言い伝えだとな、霧が消える間際に、あっちの世界と
 こっちの世界が入れかわってしまうことがあるんだそうだ」

「もし入れ替わってしまったらどうなるかはわからない。
 ただ・・・おまじないの一種なんだろうな。
 右の腕に線を書くか、書くものがないときには薄く傷をつけて、
 晴れるまで見つめていると無事にやり過ごせる、そう言われて
 いるんだよ」こう、大人に言うような口調で説明されたので、
その場はなんとなく納得した気分になったんです。
もうキノコ採りはあきらめて、急いで山を下り家に戻りました。
手ぬぐいをとってみると血はもう止まっていて、一本の細く赤い線が
あるだけでしたね。親父の傷も同じようなもんでした。
まあ、こんな話です。

・・・それ以後も親父と、あるいは一人で山には何度も入ってるんですが、
こんな現象には二度とお目にかかったことはありません。
ああ、そのときの傷跡ですか・・・まだありますが、
だいぶ薄らいでしまったので見えるかどうか。ほらこれです。
腕の内側の白いところだからまだわかるんでしょうねえ。
あとですね・・・実は傷は同じようなのがもう一本あったんです。
そっちのほうはとうに消えてしまいましたが、左腕の似たような場所にです。
おそらくもっとずっと小さいときからあったのだと思います。
その頃すでに、よく注意して見ないとわからないくらいでしたから。
霧鏡で右腕に傷をつけた後で、風呂に入ったときに気がついたんです。
そちらのほうは、いつついたかはまったく記憶にないんですがね。

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