自分の親が、愛情深い人ではなかったということはわかった。

 

それに対して、子供としての寂しさや怒りも感じるし、人として軽蔑することもあった。

 

しかし、親がそういう親にしかなりえなかった原因には、親なりの事情があったからだろう。

 

それを受け入れることこそが、”親を超える”ということなのかもしれない。

 

明日は、大勢の方が亡くなった日です。
 
我が息子が死んだのは20年前の8月12日だったので、あの航空機墜落事故で亡くなった方たちの仲間入りをしました。
 
息子が交通事故に遭って、ほぼ即死だったことがわかった瞬間「人間が生きている中で、こんな悲しいことが起きていいのか!」と思いました。
 
でも、それは、同じ体験をした遺族の数だけ起きていたということを、遅まきながら気づかされた瞬間でもありました。
 
それと同時に、こんなにあっけなく人生が終わることがあるというのに、そもそも生きてるって何の意味があるんだろうと思いました。
 
あれ?ちょっと待てよ・・・この疑問、小学4年生のときに母親に訊いてみた記憶があります。
 
台所でぬか床をかき混ぜる母の背中に向かって「なんで生きてるの?」と尋ねたところ、母は振り返りもせず「そんなこと考えるなんて愚の骨頂だ!」と返り討ちのような一言を放ちました。
 
確かにヤブから棒の質問だったので、母もギョッとしたに違いありませんが、あまりに意外な反応だったため「え?」と聞き返してしまったほどでした。
 
そしてわりと冷静に、”なん~だ、大人もわからないのか”と思いました。
 
そのモヤモヤを頭の奥の隅っこに押しやったまま、いつしか自分も”大人”になり、32歳の時に息子の死に直面した直後から再びこの問いに向かい合っていたある日、ひとつの文章が前頭葉の電光掲示板に映し出されました。
 
 
 
 
人は、人のために生きている
 
 
 
 
自分の幸せだけを願っているから、その幸せが手に入らなかったときに人は失望する。
 
それなら、無限とも言えるほど存在する他人の幸せのために生きれば、永遠に幸せを感じて生きていける!
 
 
 
 
「これが子どもの頃から求めてきた、究極の答えだ!!
 
 
 

と、車の運転中だった私は、思わずハンドルを強く握りしめるほどの興奮を覚えたのですが、このあとさらなる自問自答が20年も続くとは、その時は思いもよりませんでした。
 
 
 
 
(つづく) 

自分が”ここに、ただ、在る”ということのみで

安心感を得られるために生きているのではなかろうか

 

そこへ到達する道筋は、人の数だけある

 

ハウツー本には書かれていない

 

自分の「経験」の中でなされた「思考」を重ねることでしか、そこへ近づく手段はない

 

しかしながら、到達する瞬間は「思考」によってではなく、によって、ワープ的に一気に訪れることもある

 

最も良質な「思考」は、これまでの価値観を「疑う」こと

 

何を真っ先に疑うべきかと言うと

 

 

”親の人生観”

 

 

ただし、

 

 

「親の言うことなんか信じなくていい」

 

 

という親の意見はその限りではない