【ダンマパダ】
320:
私は象が戦場で弓から放たれた矢に対するように
非難叱責に耐えよう 何となれば多くの人々は戒めを破るのである。
321:
人々は象を戦場へと引き連れて行き 国王は象に乗る
非難に耐えるように調御されたる者が人々の中で最上の者である。
以下、私見。
テキストの解説を参考に、上記の句を解釈すると――。
象は当時のインドで「武器」であり「権力の象徴」であったらしい。
象の背に乗った王は、象の力で非難者を蹴散らすことも可能だったでしょう。
しかし、力に訴えずに、非難に耐える者が最上であるという。
仏教者に置き換えるなら、「教義」や「戒律」を押しつけて出家者や大衆を制するのではなく、非難者がいずれ教えに耳を傾けるそのときまで、非難に耐え、寛容を示し続ける者こそが最上となりましょうか。
このような対応が可能となるためには、心が調御されていなければならないことは言うまでもありません。
さて――以下は本当に私見、個人的なボヤキともいえる感慨の垂れ流しになりますが……。
ネット上のスピリチュアルに関する言論空間を見わたすと、非難が飛び交っていることに辟易してしまいます。
(嫌気がさしてスピブログはほとんど読まなくなりました)。
自分こそが本物だ、誰それは偽物だ、あいつの言っていることは間違いだ、云々。
非難された側は、どうしようもなく反応してしまう。攻撃的であれ、防御的であれ、反論をせずにはいられない衝動に負けてしまう。
非難されていなくても、非難されることを恐れて、予防措置を講じてしまう。ふわふわスピですとあらかじめ断りを入れておく、あるいは、アクセスを限定する(アメンバー限定記事、有料オンラインサロンなど)……。
ため息が出るほど、やるせない気持ちになります。
このような状況を視野の片すみに置いたまま、上記の句を読み直すと、非難に耐えられるように心が調御された者が最上であるという教えがまぶしく映るのであります。
非難といって思い出すのは、何といっても白隠禅師のエピソードです。
「町娘を孕ませた生臭坊主」とデマを流された白隠禅師は、それに一切反応せずに、日々のやるべきことを淡々とやり続けました。
やるべきこととは、託された(というより押しつけられた)赤子を育てることです。
か弱き命を慈しみ養う、ただその一点に注力したのです。
これは手本です。
生涯をかけて手を伸ばしても、指先がかすることすら叶わぬ遠くにあるものかもしれませんが、やはり手本にするべき尊さがあると感じます。
(記事を書き終えたあと、「私見」自体が非難になっていることに気付き、自嘲の溜息をついた次第であります)
