将門記
◇ 密偵子春丸(1)
そのころ、将門の駈使(くし)である丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)という者が、縁者があるというので、しばしば常陸国の石田庄あたりの田屋と往来していた。
そこで介良兼は心中でひそかに考えた。
「讒言の刃は岩のように硬い絆も断ち切り、甘い懇願は山のように動かない心も傾けることができるものだ。どうにかして子春丸を内通させて、何としても将門らの身を殺害してくれようぞ」
そして子春丸を呼び出して、将門方の内情を知らせることができるか問うた。
子春丸が答えて申すには、
「できますとも、できますとも。それでは今すぐ、こちらの農夫を一人お貸し下さい。連れて帰り、だんだんとあちらの様子を見せましょう」
介良兼は、子春丸の反応を好ましく、また楽しみに思うところが余りに大きかったので、東絹一疋を恵みあたえて言った。
「もし本当にお前が手引きをして将門を殺させてくれたなら、荷物運びの苦しい仕事はなくし、必ず乗馬の郎党に取り立てよう。もちろん、米俵を積んでお前を勇気づけ、衣服を分けあたえて褒美をとらせもしよう」
子春丸は、たちまち、この甘言に飛びついたが、駿馬の肉を食らえば死ぬということを未だ彼は知らなかった。ただ鴆毒(ちんどく)の甘さにしたがって、これ以上はないほどに喜ぶばかりだった。
そして例の農夫をともなって、私宅のある豊田郡岡崎村へ帰って行った。
【解説】
「駈使」について。
走り使い。脚力を以て諸用をすませる下人の称。
「丈部」について。
丈部は「馳使部(はせつかべ)」で、上代に走り使いに従事した使丁の部曲の民。
常陸地方には多くの丈部姓の人々がいたことを示す史料がある。
子春丸もこうした一族の出身であったものか。
「常陸国の石田庄」について。
平国香の本拠地だった地である。
将門に管理を一任する貞盛の腹案は、良兼の介入により頓挫し、この時点では良兼の勢力圏にあると考えられる。
「田屋」について。
私営田領主が各地に散在する出作地に設けた仮小屋の称。
「東絹一疋」について。
「東絹」は、東国より産出するあしぎぬ。粗く太い絹で平織りにしたもので、細い絹糸で緻密に織った「縑(かとり)」にくらべると粗悪であり、「悪絹」の代名詞とされた。
「疋」は布などを数える単位。
「荷物運びの苦しい仕事」について。
原文は「荷夫の苦しき役」。
荷夫という語は珍しいが、荷物の運搬などの力仕事にたずさわる人夫のことであろう。
「衣服を分けあたえて褒美をとらせ」について。
平安時代には、身分の高い者が、低い者に、褒美として衣服を下賜する習慣があった。
これを「被け物(かずけもの)」という。
あたえられた被け物は、身に着けたり肩にかけたりして退出するのが礼儀であった。
「駿馬の肉を食らえば死ぬ」について。
中国の『呂氏春秋』に、飢えて軍馬を食った兵に医療を施したエピソードが載る。馬肉により身体を損うという言い伝えが、当時あったと思われる。
わが国で、実際に馬肉を食した者が亡くなった例は『太閤記』に見られる。
乗馬の郎党に取り立てるという誘いに子春丸が乗ったこととの関連で、駿馬の肉の喩えを持ち出したものと思われる。
「鴆毒」について。
鴆(ちん)は、中国の深山に棲むと伝えられる鳥。
蛇を常食とし、羽毛に毒があるという。
その羽毛を酒に浸して作った「鴆酒」は、猛毒でありながら、その味は甘く、口当たりがよかったとされる。