【ダンマパダ】
11:
真実でないものに対して真実を見て
真実に対して真実でないものを見る
邪な思いをめぐらす彼らは真実へ到達しない。
12:
しかし真実を真実と知って
真実でないものを真実でないと知る
正しい思いをめぐらす彼らは真実へ到達する。
以下、私見。
仏教における「正しさ」とは何か?
これを理解することは、とても難しいと感じます。
「ありのままに見る」と言うのは簡単でも、実行するのは至難です。
私たちは「カアカア」という鳴き声を聞いた瞬間、ほとんど自動的・無意識的に「カラスの鳴き声だ」と判断しますが、ある禅僧は「カアカア」は「カアカア」だと言います。
この禅僧は、過去の経験により形成された「知識のデータベース」に基づく判断を停止させ、聴覚情報を〝ありのままに〟受け取っているように思われます。
まったく未知の音に遭遇した場合は、それを判断する材料が「知識のデータベース」にないので、その音をそのまま受け取るしかなくなります。
しかし、既知の音に対してはどうでしょう。「知識のデータベース」の活動を休止させるなどということができるのでしょうか。
とても難しいことではないでしょうか。
「知識のデータベース」に基づく判断――思い込みとも言う――が真実を覆い隠しているとしたら、真実に到達することは、とても難しいと感じます。
仮に真実に到達したと思ったとして、その判断が正しいかどうかは、どうやって判断するのでしょうか。いまだ真実に到達したことがない者に、それが真実だとわかるものなのでしょうか。
また、一度真実に到達した者は、二度目以降も真実に到達し続けることができるのでしょうか。
「知識のデータベース」に〝真実〟が登録され、それに基づいて判断する可能性は消滅するのでしょうか。
真実に到達したことのない凡夫には、わからないことだらけなのであります。