〝気付き〟があったので書いてみます。
近ごろ、私は元気がありませんでした。
鬱の四歩手前ぐらいにいました。
職場に事あるごとに私を攻撃する人がいるから。
言葉と態度による攻撃です。
嘲り貶めることが目的ですので、その人の用いるリクツはまったく論理的ではなく、前後の整合性もありません。よって筋道立てて反駁しても徒労に終わるだけだったのです。
精神的ダメージは次第に蓄積し、出勤しようとすると嘔吐感に襲われるようになりました。
ところが。
コンプライアンス窓口に相談しようかと考えていた矢先――状況は一変しました。
具体的に行動をおこしたわけではありません。
いつものように攻撃を受けていたとき、ふいに、相手の心が〝見えた〟のです。
イメージでいえば――
攻撃行動がすうっと透明になり、自分の心と相手の心が地続きになったような感覚があり、地続きになり垣根の存在しなくなった相手の領域を見晴るかすと、そこに〝不安の色〟が見えたのです。
(ああ、この人、不安だったんだ)
その人は、自分が軽侮されることを恐れていました。
だから、誰かを見下すことで、自分が優位である実感を得ようと必死だったのです。
このとき、私は、自分が攻撃されていることを完全に忘れていました。
翌日になると、空気感が変わった実感がありました。
その人は攻撃をしてこなくなりました。
不思議なことです。
さて――。
攻撃行動の動機として、何らかの劣等感が潜んでいる――。
このような知識は以前から持ち合わせていましたし、実際にそういう人に遭遇した際には、心理分析をして看破することもできました。
しかし、そういった理解のし方は、相手の心に寄り添い受容する態度とは別種のものだったのです。
今回の件を通して、そのことに気付きました。
今までの私の理解のし方としては、
① 不安を他者への攻撃に変えているのだな。人間として未熟だな。魂年齢が幼いな。
② 自分の心を護るために、防衛機制が働いて、攻撃行動をとっているのだな。なるほど、なるほど。心理学の教科書どおりだ。
といったニュアンスがほとんどでした。
①は相手を見下しており潜在的に攻撃性を備えています。
②はいかにも冷徹で共感とは程遠い。
これでは相手を安らげることはできません。
それは翻って私自身が安らげないことを意味します。
しかし、今回は、
③ ああ、この人、不安なんだな。
見下しもしなければ、分析対象として俎上に乗せるでもなく、ただ相手の心をありのままに見る、といった理解のし方でした。
この理解のし方を体得すると、相手の攻撃を〝外す〟ことができることに気付きました。
躱す、ではなく、〝外す〟とは、どういうことでしょうか。
攻撃が有効打になるためには、適切な間合いが必要です。
遠ければ命中しません。近ければ、命中しても力は弱まります。
相手を「加害者」、自分を「被害者」といった観念で捉えると、攻撃が有効打となる間合いが完成してしまいます。
相手は「悪い」、自分は「悪くない」でも同じことです。間合いを完成させる彼我のレッテルは、他にもあると思います。
攻撃行動に遭遇したとき、行動ではなく、相手の心にフォーカスすると、相手の心の近くまですっと間合いを詰めることができます。
こうして間合いを詰めた瞬間、自分はもう「被害者」の位置にはいなくなっているのです。
相手の攻撃行動は止まらないかもしれませんが、もはや、有効打となる威力はありません。
攻撃を〝外す〟とは、攻撃の間合いを崩すということです。
防御でも回避でも逃走でもない、このような対処法があることを発見できたのは、大収穫でした。
ふとした瞬間にコツを掴むということは、あり得ることなのですね。
鬱な気分が消えて、現在は晴れ晴れした心境です。
(おわり)