「刀鍛冶の里」編のことをつらつらと考えていたら、禰豆子が太陽を克服できた理由を思いつきました。
いま言ったとおり、思いつきです。
論理を積み重ねて結論に到ったいわゆる「考察」ではありません。
「刀鍛冶の里」編をこのように読み解いた、といった「解釈」の範疇に入る話です。
「刀鍛冶の里」編の時点において――。
千年におよぶ鬼の歴史のなかで、陽光のもとで生きていられる鬼は、禰豆子ただひとりでした。
彼女と他の鬼とは、何がちがうのか?
決定的なちがいは、人を喰っているかいないか、です。
愈史郎も喰っていませんが、彼は人間から分けてもらった血を飲んでいるので、広義には人喰いをしていると捉えてもよいでしょう。
では、人を喰わないことが太陽克服の条件かといえば、それも少しちがうようです。
半天狗を追いつめた野原で、禰豆子は現実として陽光に焼かれているからです。
人喰いをしていないことは、「必要条件」であったかもしれませんが、「十分条件」ではなかったようです。
しかし、禰豆子は実際に太陽を克服したわけですから、陽光を浴びてから肉体が崩壊するまでの間に、何らかの条件を満たしたはずです。
その短い時間で彼女がしたことといえば、炭治郎を蹴っ飛ばしたことしかありません。
正確には、自分の命より、他人(里人)の命を優先する行動をとったことです。
立派な自己犠牲の精神。とっさに決断できることではありません。
これで最後の条件を満たすことになったのではないか。
つまり――
お天道様に顔向けできる行動をとったので、お天道様の下を歩けるようになった
これが禰豆子が太陽を克服できた理由だと思います(バハーン!)。
あ、見捨てないで。もう少し続きを読んで。
『煉獄零巻』に次のように書いてあります。
人生は選ぶことの繰り返し
けれども選択肢は無限にあるわけではなく
考える時間も無限にあるわけではない
刹那で選び取ったものがその人を形作っていく
(中略)
その瞬間に選んだことが自分の魂の叫びだっただけ
朝日で焼死する寸前、禰豆子が刹那で選び取ったのは、里人をたすけること――。
それが禰豆子の魂の叫びだった。
鬼の形質は、精神の影響を多分に受けると思われます。
猗窩座の体表の紋様は、罪人の刺青がもとになっていますし、手鬼の肉体が多数の腕で構築されているのは、手をつなぐことへの妄執の具現でした。
で、あるならば――。
他者の命を最優先とした禰豆子の精神性が、肉体の性質に反映されたとしても不思議ではありません。
もともと禰豆子は、自我を取り戻すことより、太陽を克服することを優先して、血液の成分をめまぐるしく変化させていました。
その変化を完成形に導く決定打となったのが、自己犠牲の精神だったのではないでしょうか。
他者の命を優先した結果、自らの命もたすかる――。
この結果は、「刀鍛冶の里」編のテーマと合致しています。
情けは人のためならず
人のためにすることは巡り巡って自分のためになる
このテーマの具体的な結実は先に示されていて、小鉄くんをたすけた無一郎が、小鉄くんの機転で血鬼術・水獄鉢を脱出するくだりがそれです。
あらかじめ実例を提示しておくことにより、テーマは絵空事ではなく、劇中において実現することを読者に予告しておいてからの、禰豆子生存エンドです。作劇的にまったく正しい手続きを踏んでいると言えます。
他者のために自分の命を差し出した禰豆子が、巡り巡って新たな命(太陽を克服した肉体)を授かる――。
まったく不自然ではありませんね! ね!
さて、ここで、VS.半天狗の方へ目を向けてみましょう。
炭治郎・禰豆子・玄弥の三人は、憎珀天の攻撃により致命的な窮地に陥った蜜璃ちゃんを、みんなで力を合わせて救出します。
たすけられた蜜璃ちゃんは、みんなを守るために奮戦し、ぐああ~っときてメキメキメキィッとなって痣を発現させるに到りました。
ここで示されているのは、「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」の精神です。
敵対する半天狗の精神は真逆です。
「みんな(分身)はひとり(本体)のために、ひとり(本体)は自分のために」。
蜜璃ちゃんと半天狗は、対比になっています。
炭治郎たちとチームを組んで戦う蜜璃ちゃんに対し、半天狗は一見チームプレイをしているようでいて、全部分身ですから、実質、ひとりで戦っています。
無一郎も蜜璃ちゃんも、柱としての実力は折り紙付きですが、仲間のアシストがなければ負けていました。
突出した力を持った者がひとりいても、周囲との協調がなければ、その力を活かしきることができない――
これは「刀鍛冶の里」編のもうひとつのテーマであります。あるいは、「情けは人のためならず」を別の言い方で表現したものと言うべきでしょうか。
半天狗は、鬼になる前の人間だったころから、「情けは人のためならず」の精神を踏みにじってきました。
盲目の人たちに優しくしていた〝旦那様〟から盗んでいたのです。
そして罪を問われると、この手が悪いなどと言って、言い訳と他責に終始します。
そんな半天狗の精神性を、炭治郎は無責任と評しました。
自分の責任から逃げる者が、みんなのために頑張れるはずがありません。
半天狗と蜜璃ちゃんはの対比ポイントは、まだあります。
鬼殺隊に自分の居場所を見つけた蜜璃ちゃんは、みんなを守ることで鬼殺隊士としての責任を果たそうとします。
一方の半天狗は、自らの悪行の責任から逃げ続けた結果、人間社会に居場所を失い、鬼となってしまいました。鬼になってからも、面倒事は分身まかせにして、本体はひたすら逃げるという戦略をとりました。生き方が、分身を生み出す特性や戦略として具象化されているのは面白いですね。
利己の精神で逃避を続ける半天狗を討ち取る決定打となったのは、禰豆子が発揮した自己犠牲の精神でした。
ドカッと蹴っ飛ばされた炭治郎は、禰豆子の笑顔を見て、自らのなすべき務めを果たす覚悟をきめました。
その瞬間に、刹那で選び取った禰豆子の行動が、炭治郎に鬼を討たせたのです。
それは里人の命を救うことにつながり、巡り巡って太陽の克服という奇跡をたぐり寄せました。
情けは人のためならず
人のためにすることは巡り巡って自分のためになる
テーマに沿って、きれいにまとまった結末でした。
「刀鍛冶の里」編って、よくできているわ。

