前回までの『将門記』のあらすじ:
下野国との国境で、将門軍と良兼軍が会戦。
敗走した良兼軍は、下野国府に逃げ込み、籠城する。
将門が伯父である良兼を見逃そうと包囲を解いたところ、籠城していた兵たちも一緒に逃げていったのであった。
この「下野国境の戦い」に関して、いくつか不明な点があるので、考えてみたいと思います。
第一の不明点は、将門の討伐を目的とする良兼軍が、将門の本拠をまっすぐに目指さず、下野との国境に向かった理由です。
大きく北へ迂回するルートをとったわけですが、渡河の不利を回避するためだったのではないかとする説があります。
常陸国と下総国との間には、小貝川と鬼怒川のふたつの河川が流れており、将門の領地に攻め込むには、これらを渡らねばなりません。
渡河中は、軍団がひとまとまりとなって移動できませんから、将門軍に迎撃態勢を敷かれたら、良兼軍が不利になります。
そこで、将門軍に察知される前に、渡河をすませようと、上流へ大きく回り込んだのではないか。渡河後、下野方面から南下するルートは、常陸方面から西進する軍を警戒する将門側にとっては、奇襲となり得ます。
想像力をたくましくすれば、他の理由も想定することは可能です。
藤原秀郷の妹が平国香の妻となっている関係から、下野国からも援軍を募っており、それと合流するためだった、と考えることもできましょう。
私が構想している小説では、鬼怒川上流に将門の差配する「物流センター」があり、そこを襲撃するために下野国境へ進路をとった、とする予定です。
第二の不明点は、良兼が下野国府へ逃げ込んだ理由です。
率直に考えれば、いかに将門といえども、国府――公の役所には手が出せまい、と思っての行動でしょう。
「公の権威」の陰に避難した形ですが、このような発想はどこから生まれたものでしょうか。仮に敗走したのが将門であったなら、同じ行動はとらなかったと思います(後に敗北した際には、下総国府を頼らず、領地内に潜伏しています)。
おそらく、良兼が上総介――国司であったことと無関係ではないでしょう。
国司は、守・介・掾・目の四階級の人員で構成されます。
上総国は、親王任国といって、守には親王(皇族)が就任するのが慣例となっています。守は在京のままで給料を受け取り、現地には赴任しません。これを遙任といいます。そのため、次官である介が、現地での政治的トップになります。
さらに、この時代は、税制に変化が生じた時期であり、国司のあり方も変化しました。
公民に班田をあたえて、その人数に応じた税を徴収する制度が機能しなくなったため、土地に税を課す方式に切り替わっていきました。人頭税から地税への改革です。これなら、戸籍で公民の数を正確に把握する必要はなく、土地の所有者から税を徴収すればすみます。
これに応じて、国司の権限が強化されました。
国司は、既定の税額を朝廷に納めさえすれば、あとはかなり自由な裁量で国内を支配することが許されました。
本来、守・介・掾・目には、相互に任命権がなかったのですが、守の権限を強化するため、守に任命権があたえられました。人事権を握る者の意が通りやすくなるのは、どの時代でも変わりません。こうして権限を強化され、朝廷の徴税請負人と化した国司のトップを、受領(ずりょう)と呼びます。
親王任国である上総国では、介がトップですから、良兼が受領ということになります。
受領としての意識が、下野国府に逃げ込むという行動をとらせたのではないかと、私は推量します。
受領は、徴税ノルマさえクリアすれば、かなり自由にやれたので、私腹を肥やす者も多くありました。過剰に徴税し、国庫に納入する分との差額を、自分のポケットに入れても、処罰はされなかったのです。甚だしい公私混同ですが、この時代、公私の区別はすこぶる曖昧でした。
思えば、良兼は、上総国から出陣する際、国衙の役人に制止されています。
国境を越えて私兵を動員することへの掣肘でしょう。
しかし、これを振り切って出動しています。
理由は、甥の将門に制裁を加えるという、私的なものです。
しかし、敗勢となるや、下野国府という「公の権威」を笠に着て、身を守ろうとしました。
公私混同です。
何のためらいもなく、ごく自然な成り行きで、このような行動に出ることができたのは、良兼が受領だったからではないでしょうか。
第三の不明点は、兵力の数です。
良兼うごく、の急報を聞き、敵状視察のために飛び出した将門が率いていた数は「百余騎」。
彼らが目撃した良兼軍の数は「数千」。
将門軍が射取った敵の数は「八十余り」。
下野国庁の包囲から脱出した良兼軍は「千余騎」。
単純に算数で計算すると、国府に籠城した数が少ない気がしますが、戦場から国府へ移動する途中で、ほとんどの伴類が逃げ散ったものと考えておきます。
良兼とともに国府へ立て籠もったのは、比較的忠誠心の強い、従類をはじめとする軍の中心的メンバーだったのでしょう。
その中には良正と貞盛もいたと考えられますが、『将門記』は彼らについては言及していません。
また、将門は、本来なら良兼ひとりを見逃す心づもりだったのであり、もし思惑どおりに事が運んでいたら、残りの軍勢を殲滅したのだろうか、という疑問が残ります。
もしそうなっていたら、下野国庁は焼かれていたかもしれず、将門は公の施設を破壊した罪で、史実より早く謀反者の名を冠せられていたかもしれません。
※ 二年前に「下野国庁跡」を取材した記事があります。よろしければ併せてご覧ください。
