※ 本稿はスピリチュアルな内容をふくみます。興味のない方はスルーしてください。
前回の記事でこんな一文を書きました。
〝およそ、おこる出来事というのは、すべて、自分を怒らせようとするスピリチュアル的な罠だ、くらいに考えておいた方がいいでしょう〟
自分で読み直したら、「スピリチュアル的な罠」について、言葉足らずじゃないか、説明した方がいいのじゃないか、という思いがふつふつと湧いてきたので、説明します。
以下は全部、私の考えなので、合わない方は右から左へ流してください。左 → 右でもOKです。
スピ的な罠、と聞いて、みなさんはどんなイメージを持つでしょうか。
霊感商法に騙されるとか、浮世離れしたスピの教えを信じて脳内がお花畑になるとか、そんな感じでしょうか。
そういうのもスピ的な罠と言っていいと思いますが、私は「慢心や偏見が増大するように仕向ける出来事」と定義しています。
ブログで、怒らないことが悟りだ、みたいなことを書いていると、おまえの言行が一致しているか試してやろうとばかりに、コイツ腹立つわーみたいなおかしな輩と遭遇してしまうのですわ。
つい先日も、家に悪質な訪問営業がきて、生まれて初めて110番通報してしまいましたのよ。
なかなか不愉快な経験でしたが、感情的にならずに、冷静に対処できたと思います(途中で何度か○そうかなコイツと思ったのはナイショです)。
こういうのが「罠」なんだろうな、と思います。
私は育った家庭環境がおかしかったので、暴力的な思考に染まっていた時期が長かったのですが、やっとそこから抜け出せたという実感を獲得できたにもかかわらず、今でもときおり、暴力の世界に引き戻そうとばかりに、腹の立つことを仕掛けてくる人物が出現します。怒りに駆られて行動したら〝負け〟なんだろうなァ。
本当に「怒らない覚悟」ができているかを試験するために、何者かが刺客を送り込んでいるような気がします。
そろそろやめてほしい(本音)。
特筆しておきたいのが、「スピリチュアルな出来事」もまた、慢心や偏見を助長する場合があるということ。
現時点の科学では説明できない、不思議な現象があることを、私は否定しません。
なぜなら、私自身がそれを体験しているから。
スピを信じない人には眉唾でしかないでしょうが、スピリチュアルな体験には、強烈なリアリティが伴っている場合があります。
そういう体験をすると、自分が何か特別な存在になったような気になるのですね。
自分は真実に目醒めたとか、霊性が向上したとか、正しい道を歩んでいるとか、そんな実感を得ることがあるのですわ。
ここに「罠」が潜んでいます。
これに引っかかると、自己を特別視し、他者を蔑むようになります。
自分はスピリチュアルな学びをし、上等な人間になったと心から信じていますから、そんな自分が他人を見下すなどありえないと思い込んでしまいます。
スピ的な学びが、かえって仇となり、大きな盲点を作りだして、自己の最も醜い部分を覆い隠してしまうのです。
以下、しくじり先生(私です)の授業。
〈ワンネス〉の体験をしたのは、2013年の初めごろだったかな、確か。
突然、「すべては同じひとつ」という感覚になり、「宇宙には〈自分〉しかいない」ということがわかりました。
その少し前には、奇蹟としか言いようのない体験もしました。
人生と自己に絶望し、自らこの世を去ろうとしていた私は、全身全霊の怒りと憎悪をこめて、神さまにケンカを売ったのでした。
『神との対話』という本の猿真似でした。
あちらは神さま宛てに怒りの手紙を書いたら、自動筆記現象がおきて、神からの返信を自らの手で筆記したという内容でした。
私の場合、手紙を書くなんてまどろっこしい手段はノーサンキューだったので、声に出して怒鳴ったのです。
「神が存在するなら、今すぐ証拠を見せろ!」と。
すると一分後くらいに、「証拠」が出現しました。
『BLEACH』という漫画に、空間の裂け目から大虚(メノス・グランデ)という巨大な悪霊が出現するシーンがあるのですが、それと似たようなことが起こったのですね。出て来たのは悪霊ではありませんでしたが。どちらかといえば、それと対極の存在でしたが。
人間、信じられないものを目撃すると、本当に目をゴシゴシ擦るということを、そのとき知りました。
(宇宙って、何でもアリなんだな……)
そのとき、そう思って以来、不可思議現象を否定する気持ちはなくなりました。
でもね、不可思議現象や、何なら奇蹟だって、「ただ起こる出来事」のひとつにしかすぎないのです。奇蹟なんて、毎朝の歯磨きと同じくらい平凡なことだし、奇蹟を神聖と言うなら、毎朝の歯磨きだって同じくらい神聖なんだ。
当時の私は、そんなこと、全然わからなかったのだけれどもね。
それで、まんまと「罠」に嵌まり、見事に慢心してしまった。
自分は覚醒したんだ、特別な存在になったんだ――って。
そのあと、スピの催しとか合宿とかに参加するようになって、そこでたまたまご一緒したスピ系出版社の社長さんとかに、ずい分と失礼な態度をとったなあ……。
ああ、穴があったら入りたい。
私は、社会に出てから二年くらいで対人恐怖症になるくらいの、強度の自己無価値感に囚われていたのですが、その心の空虚に「スピリチュアルな体験」がヌルリと入り込み、自己無価値感を反転させて、他者を無価値と見下す究極の慢心を作りあげてしまったわけです。
これが私のしくじりです。
自分が慢心していることを認めるのは、ずい分、苦しい作業でしたよ。
授業、終わり。起立、礼、着席。
前回の記事では、「鏡の法則」をやり玉にあげるような感じになってしまいましたが……。
全否定しているわけではありません。
「鏡の法則」や、その他の法則――「引き寄せの法則」とかもそうかな――、そういうのは、あると言えばあるし、ないと言えばないのだと思っています。どっちやねん!
おそらくですけど、「鏡の法則」があるのではなく、「鏡の法則が機能しているように見える現象」が生起しているのだと思います。
宇宙は何でもアリですから、「自己の内面を整えたら外部世界が整った」ということも起こるでしょう。
そういう出来事に直面したときに、「鏡の法則」の存在を確信し、それに依存したり、教条的になったりしていくのか――。
はたまた、「自己の内面を整えても、どうにもならない場合もある」ことを認めて、それでも腐らずに、現実と向き合って誠実に生きていくのか――。
自分の在り方次第で、たどる道筋は変わるのだと思います。
「罠」というものの、厄介な性質について。
それが「罠」だと看破できるようになるには、少なくとも一度はそれに嵌まる必要があるということ。
体験型の学びには、苦い思いが伴うものです。
そして人生は、体験の連続。
いやはや。