もののけ姫 | 物語の面白さを考えるブログ

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岡田斗司夫氏の解説動画を見たら、「『もののけ姫』って、そんな話だったっけ?」となり、確認のためにレンタルして鑑賞しました。

 

岡田氏のおっしゃるには、

 

・アシタカはカヤとエッチしてます

・アシタカはサンとエッチしてます

 

だそうです。

そんなシーンあったっけ?

直接的なシーンがないのはわかっていますが、では、匂わせみたいな描写はあったのか?

異常なまでの注意力を発揮して鑑賞しましたですハイ。

 

カヤちゃんは、アシタカが故郷を出るとき、黒曜石のナイフをくれた娘です。

 

 

若い娘が見送り禁止令を破ってまで夜中に男に会いに行くのは、つまりそういう意味だと岡田氏はおっしゃるものの、本編の描写からそれを読み取るのは無理な話ではなかろうか。

アシタカが村を出て行くよう宣告されてから、旅支度を終えるまで、それなりの時間はあったでしょうから、その間に事を済まそうと思えば、可能ではありましょう。

 

宮崎駿監督は、『もののけ姫』から映画の作り方を変えたらしく、それまでは鈴木敏夫Pの意向に妥協し、削るべきは削り、わかりやすく作っていたものの、『もののけ姫』からは、「必要なことはすべて描く。しかし、わかりやすくは描写しない」というスタンスになったらしい。

したがって、視聴者は、不親切な描写から、想像力を駆使し、作品の奥に隠された真意を発掘しなければならなくなった――らしいです。

男女が映っていれば、深い仲になっているかどうかまで推察しなければならない。

 

アシタカとサンは深い仲になったのか――?

言われて観なおしてみれば、そういう感じは、確かにする。

 

 

タタラ場を去る際、石火矢で撃たれ負傷したアシタカを、サンが看病したでしょう。

しばらく意識朦朧としていたアシタカが目覚めると、そこはサンの塒の石室だった。

外へ出て、モロの君と会話を交わす。

 

 

石室に戻ると、隣で丸まって寝ていたサンが目を覚まし、「歩けたか?」と訊く。

アシタカは、布だか獣皮だかわからないけど、掛け布みたいなのをサンにかけてやり、隣で寝る。

次のシーンでは朝になっており、アシタカが目覚めると、サンはいなくなっている。

はい、ここ!

事に及ぶとしたら、このタイミングしかありません。

そういう先入観で見ると、事後のように見えるから不思議。

しかしアシタカよ、おまえ、病み上がりのくせに元気だな。

 

 

その後、人間とイノシシたちの戦いが始まり、サンは「乙事主さまの目になりに行きます」と告げ、モロの君と別行動をとる。

このとき、モロの君が、アシタカと共に生きる道もあるのだが、と水を向けると、サンは「人間は嫌い!」と、ことさらに語気を強めて拒否する。

このシーンの、この台詞。

すでにアシタカと深い仲になっている前提で読解すると、言葉どおり「人間が嫌い」という意味ではなく、「アシタカが好き」という意味に聞こえてきます。

アシタカと共に生きる未来を選択することは、山犬の娘として生きてきたこれまでの自分を否定することになる。しかし、どうしようもなくアシタカに惹かれる自分がいる。自分の心が人間の男に急速に傾くさまに恐れをなしたサンは、自らに言って聞かせるように「人間は嫌い」とことさらに強く言ったのではないでしょうか。

 

少し前の記事で、『書く人はここで躓く!』という本を紹介しました。

それによると、会話には三つの機能あります。

「作中人物へ情報伝達する機能」「読者へ情報伝達する機能」「描写としての機能」の三つです。

『もののけ姫』における会話は、「描写としての機能」が格段に強いです。

つまり、登場人物は、必ずしも事実や本心を語っているとは限らない、ということです。

会話の表面にある情報を鵜呑みにするのではなく、発話者の立場や心情を推量・考察し、真実を探り当てねばなりません。

この作業を、物語を味わう楽しみととるか、骨が折れる面倒ととるか。

 

アシタカとサンがすでに情を通わせていると仮定すると、以下のシーンに漂う〝親密さ〟にも納得がいきます。

 

 

物語をまとめるために終盤で発動する急造カップリング――「ファイナルファンタジー現象」(by『銀魂』)ではなかったのですね。

 

アシタカとサンができていたのかって話はここまでにして――。

以前からひとつ、気になっていたことがありました。

 

 

アシタカを殺そうとしたサンは、「そなたは美しい」と言われて、殺せなくなってしまいます。

ずっと憎んできた人間から、一言容姿を褒められたくらいで心変わりするなんて、チョロすぎじゃない? と思っていたのですが。

今回、じっくり観なおしてみて、思い到ったことがありました。

モロの君がサンのことを「憐れで醜いかわいい私の娘だ」と表現していたじゃないですか。

モロの君は親としての愛情をサンに注いでいますから、「かわいい娘」であることは間違いないでしょう。

では、「醜い」とは、どういう意味か。

山犬の審美眼で見ると、という意味ではないでしょうか。山犬の審美眼で見ると、人間という生き物のフォルムは、どうにも醜い。人間としては容姿が整っていたとしても、山犬としてはやはり醜いと言わざるを得ない。

人間だって、同族の美男美女に恋はしても、どれほど美しかろうと、犬には恋をしません。

種族の間には、「越えられない壁」が、どうしようもなくそびえ立っているのです。

それはサンの側からも同様で、いかに自分が山犬の娘だと思い込もうとしても、自分はどうしようもなく人間であることを、折にふれ思い知らされてしまう。

どうあがいても自分は美しい山犬にはなれない――自分はどうしようもなく醜い人間なのだと。

「醜い人間」であることが、サンのセルフイメージだったとしたら。

死に際にアシタカが放った「美しい」の一言は、「種族間の壁」の呪縛からサンを解き放つ救いの言葉になり得たはずで、褒められ慣れていない純情娘が容姿を褒められてデレた、という単純な話ではなくなります。

アシタカを看護する理由を「シシ神さまがたすけたから」だとサンは言いますが、それも実は自己に対するエクスキューズであり、本心ではこの時点ですでにアシタカに惹かれていたからかもしれません。

 

 

他にもいくつか語りたいことはありますが、長くなったので、ここで終わります。