アニオリ部分は、創作手法上の悪手ではないのか?
この点に関して論じます。
前回記事で紹介した『書く人はここで躓く! 作家が明かす小説の「作り方」』で得た知識がベースになっています。
誤解のないよう最初に断っておきますが、「柱稽古編」は基本的に楽しんで視聴しています。
従来より多めのアニオリには言いたいこともありますが、不思議と腹は立っていません。
また、アニオリ部分がすべて悪いと言うつもりもなく、よい部分もあると認めています。
具体的に述べれば、珠世さんが産屋敷邸へ行く決断をするシーンです。
原作だと、鴉からの誘いを聞いたあと、産屋敷邸で再登場するまでの間、珠世さんの動向はまったく描かれないのですが、再登場したのを見て、読者は彼女が誘いを受けたことを〝自分で考えて〟理解することになります。
(珠世さんがなぜ産屋敷邸に?)→(ああそうか、結局、あの誘いを承諾したのか)
脳内でこのような思考が働き、理解に到るまでの間、読者は読み進めるのを保留しているはずです。
これは原作が漫画だからできることで、アニメだと、視聴者の理解が追いつくまでストーリー進行を一時停止するわけにはいきませんから、珠世さんの再登場時に視聴者が混乱しないよう、あらかじめ彼女の去就を描いておくことは、アニメという表現媒体に合った的確なアニオリだと思いました。
では、よくないアニオリとは、どこか。
一番にあげたいのは、宇髄天元の稽古のとき、炭治郎が「柱はみんないい人」的な感慨を心の声で述べたところです。
これは「描写」ではなく「説明」です。
両者のちがいは何か?
「説明」は、作者が解釈を限定してしまう書き方です。
「美しい花」と書けば、それは美しい花以外の何ものでもありません。
読者は美しいという説明文を頭で追認するしかなくなります。これが「説明」です。
「紫の花」と書けば、描写になります。
読者はそれを「美しい」と思うかもしれませんが、「紫って、何か妖しい感じがする」と思う可能性だってあります。
読者の受け止め方を作者が規定せずに、読者の感性に委ねる。これが「描写」です。
炭治郎が柱を「いい人」と言ってしまえば、視聴者は「いい人」以外の受け止め方を禁止されてしまいます。
柱がいい人かどうかは、本来、彼らの言動を見て、視聴者が感じる事柄であるはずです。
いい人だと感じてもらいたいのなら、そのように描写すればいいだけのことです。
「説明」は、読者の「感じる心」を抑制して「理解する頭の働き」を促進するがゆえに、「なるほどとは思ったけど感動はしなかった」という結果を生むリスクを伴います。創作手法上、よい手段だとは言えません。
柱合裁判で悪印象だった柱が、接してみたら実はいい人だった――この印象の逆転によって意外性と感動を生むのが原作の手法ですが、どうもアニメスタッフは、視聴者に柱への悪印象を持ってもらいたくないらしい。
だから炭治郎を使って折々に「いい人」だと注釈を入れてくる。
これは「無限列車編」のときからそうなっていて、煉獄さんは風変りだけど責任感の強い人だなどと、炭治郎に言わせています。匂いで人柄まで見抜く炭治郎の特性は、こんなとき便利です。
炭治郎に「説明セリフ」を言わせているわけですが、これもまた創作手法上の悪手となります。
セリフ――会話文には、三つの機能があります。
① 登場人物への情報伝達
② 読者への情報伝達
③ 発言者の人物像の描写
これらは常に独立して機能しているわけではなく、会話文にはこの三要素がほぼ必ず含まれています。どの要素が強めかといったバランスの問題はありますが。
①は、作中人物から作中人物への情報伝達です。いわゆる通常の会話です。
②は、読者に状況や心情、設定などを伝えるための発言です。
③は、発言内容そのものより、その状況でそういう発言をすることで、発言者の人物像を浮き彫りにすることに主眼を置いた会話です。
いわゆる「説明セリフ」は②に該当します。
②の要素が極端に強まると、そのキャラクターの人物像は「作中人物」から「作外の読者に呼びかけるメタ的存在」に変容してしまいます。
さらに、発言内容が作者のメッセージだった場合、キャラクターは「作者の代弁者」と化し、「生きた人間」であることをやめてしまいます。
こうなると、人物像がブレる、いわゆる「キャラ崩壊」どころでは済まなくなります。
人物像の一貫性が喪失した場合、読者は敏感にそれを感じ取り、物語から醒めます。
これが「説明セリフ」の弊害です。
炭治郎の「柱はいい人」発言は、アニメスタッフの思惑を代弁したものですから、私は聞く度に醒めてしまいます。
人物像の一貫性の欠如が、物語の面白さを損うことは、『書く人はここで躓く!』で指摘されています。
「柱はみんないいい人」と言った(思っている)炭治郎が、風柱に対して「あなたを認めていないので」と言い放つシーンでは、「みんないい人」発言と矛盾が生じることになります。――つまり、人物像から一貫性が失われることになるのです。
風柱に対する態度は原作どおりなのですが、前段でアニオリ台詞があるがために、おかしなことになってしまっています。
「いい人」発言との齟齬を回避するためには、「禰豆子を刺したのはゆるせないけど……鬼を人一倍憎んでいるのは、それだけ人を守りたい気持ちが強いってことなんだろうな」くらいに改変しなくてはなりません。
でも、ufotable は、原作どおりのところは本当に忠実に作るので、どうしてもアニオリ部分との間に継ぎ目があるように感じてしまいます。
いま述べたのは、原作にはない「説明セリフ」によって人物像の一貫性が損なわれたケースですが、予定のストーリー展開を優先したり、シーンの見栄えを優先したりして、キャラクターの言動が過去の描写と整合しない場合も、同じことがおこります。
ufotable の作る脚本は、どうも人物像の一貫性を揺るがす改変が多いように感じられます。
時透無一郎の稽古場で、紙飛行機勝負を挑むのも、そう。
炭治郎が勝ったら、他の隊士に対する辛辣な言葉づかいを少し改めてもらうという約束でしたが、そもそも炭治郎って、自分の要求を通すために勝負事を挑むキャラクターだったっけ? と首を傾げてしまいました。無一郎くんの趣味が紙飛行機だという裏設定を拾うためのアニオリシーンなのでしょうけれども、他に何かなかったのでしょうか。裏設定に触れてくれるのはファンとして嬉しい反面、裏は裏のままにしておいてほしいという気持ちもあります。
義勇さんにざるそば早食い勝負を挑んだのは、落ち込んだ義勇さんを元気づけるためでしょう。原作のこの場面で炭治郎が稽古と言っているのは、自分との稽古のことで、自分と一緒に体を動かすことで元気になってもらいたいという、炭治郎流の寄り添いでしょう、おそらく。落ち込んでいる人に、負けたら柱稽古に参加しろ、は、いくら何でも無体ですから。でも、炭治郎はケガが治りきっておらず手合わせ的なことはできないので、発想が飛躍して早食い勝負になった、といったところでしょうか。アニオリ部分では、炭治郎が勝ったら義勇さんが柱稽古に参加するという条件付き勝負に改変されていましたが。
思い返せば、カナヲに自分の心の声を聞くよう促したときも、炭治郎はコイン当て勝負を持ちかけています。ですが、あれは勝負ではなく方便で、表が出るまで何度でもやり直すつもりだったと言っていますから、実質はカナヲに対するエールだったことになります。どうも炭治郎は、元気づけや勇気づけを行うさい、勝負事や賭けのようなことを方便として用いるクセがあるらしい。
そもそも本当に勝負好きだったなら、那田蜘蛛山のあと、藤の花の家紋の家で、伊之助がやたらと勝負を挑んできたとき、嬉々として受けて立ったはずです。ですが、実際は、伊之助の行動が理解できず、困惑していました。炭治郎は勝負事を好まない――というより、勝負そのものにこだわらない性格のようです。
したがって、無一郎くんに紙飛行機勝負を挑んだのは、一見、義勇さんとの早食い勝負の流れを汲んでいて自然なようでいて、その実、これまでの描写の積み上げで描き出した炭治郎の人物像を揺るがすものだと、私には感じられてならないのです。
もうひとつだけ指摘させてもらうと――。
雛鶴さんが、「天元様は戦線離脱した自分を責めている」的なことをアニオリで言っていましたが。
その場の雰囲気で、何となく納得しかけたものの、落ち着いて考えてみたら、確か、上弦を斃したら引退して四人で穏やかに暮らそう的なことを、前もって決めていなかったっけ? となりました。
てっきり、円満に引退して後悔はしていないものとばかり思っていましたが……。
実際に引退してみたら後悔の念が湧いてきた、と補完的に解釈することも可能であるものの、やはり人物像がブレているような気がして、すっきりしません。
ufotable の脚本って、表面的には、そこまでヘンなことはしていないように見えるのですよ。
でも、絶妙に微妙なサジ加減で、これ、本当に、キャラクターの人物像の一貫性が保たれているのかな、と違和感が生じるようなアニオリを挿し込んでくる。
だからモヤモヤしてしまうのです。