史跡「平将門公本據豊田館跡」を訪ねました。
平将門の父・良持の居館があったとされる場所です。
良持は下総国豊田郡を本拠としていました。
彼の死後、将門の本拠のひとつとなったと思われます。
住宅地の中に、小さな公園ほどの敷地があります。ここが目的地。
周辺の道幅はせまく、駐車スペースはなし。
隣接して、法輪寺という無住のお寺があり、そちらの敷地にかろうじて駐車できそうな広さと雰囲気のスペースがありますが、駐車してよいかは不明。
写真の右手に、大きくて立派な石碑が見えます。
敷地内、石碑を正面に見る位置から。
石碑に向かって右側に石標。
石標の対面に将門公をかたどったレリーフ。
大河ドラマで将門公を演じた加藤剛さんに、どことなく似ているような気がします。
立派な石碑。
書いてある文章は全部読みましたが、その間、目線はやや上向きでした。
このテの石碑は史跡にありがちですが、こんな大きなものは初めて見たかも。
石碑中央に、筑波山を背景に、騎乗する将門公の絵。
背にひるがえっているのは、「火雷天神」の幟。
火雷天神は怨霊として祀られた菅原道真公のこと。
石碑の右側には、将門公の生涯が記されていました。
左側には、向石毛城の歴史。
将門公の死後、彼の荘園が平貞盛の所有となったところから説き起こしています。
石碑の背面。敷地外から撮影。
中央に略系図。
右側に向石毛城の図。
1062年に前九年の役が終わったあと、平貞盛の弟・繁盛の系統の平将基(赤須四郎)によって、豊田館跡に向石毛城が築かれました。
この地は、天然の要害として、築城に適していました。
現在では、遺構などは特に残っていないみたいです。
『将門記』には、将門の本拠地として、二地点が登場します。
「鎌輪の宿」と「石井の営所」です。
「豊田館」との位置関係を確認してみます。
豊田館を基点とすると、北方へ約3.5~4kmのところに鎌輪の宿があります。
途中、約2kmの地点に、下総の国庁があったとされる場所があります(下総国亭跡:後述)。
南西に約7kmの地点が、石井の営所。
承平7年の合戦で平良兼に敗れた将門は、幸島郡にある湖沼の畔「陸閑の岸」に潜伏しました。
『将門地誌』の赤城宗徳氏は、陸閑の場所を、旧猿島町の生子新田だとしています。
生子新田は、豊田館から、ほぼ真西に約5kmの地点。
このようにして各地点の方位と距離を俯瞰すると、鬼怒川を東から渡って鎌輪に攻め込んだ良兼軍を避けて逃げ込む場所として、石井の営所は少しばかり遠い感じがします。
陸閑は大きな湖沼の西岸にありましたから、東から来るものに対しては、葦原に囲まれた湖沼が足止めと目くらましの役割を果たすことになります。
鬼怒川西岸は湖沼地帯で、将門は水運を利用して領地経営をしていたと考えられますから、葦の繁る湖沼の中の水路も把握していたはずで、対岸に渡るのは難しくなかったと思います。
まさに、地の利ならぬ〝水の利〟を活かして難を逃れたと言えましょう。
――あくまで想像にすぎませんが、このように考えると、古代の情景が生き生きと甦ってくる気がします。
花の勢いが凄い。
「豊田館跡」をあとにし、「下総国亭跡」に向かいました。
到着!
石標には「平将門公史跡 下総国亭(庁)跡」と刻まれています。
現在で言えば県庁所在地ですね。
ここに下総国の国庁があったというのは、あくまで伝承で、歴史考古学的に証明されたわけではないようです。
キャベツ畑の中に石標が建っているだけで、まわりには何もありません。
以前は石標の横に説明板があったみたいですが、今は木製の骨組みを残すのみ。
畑は広く、道は狭い。
帰路につくため、どこでUターンしようかと思いましたよ。
実際に史跡を巡ってみると、各地点の距離感が肌で感じられて、将門公の事績を調べている身には、大いに参考になりました。
距離と方位だけでなく、意外に起伏が多いことも実感できたのは収穫でした。
千年前の地形がそのまま残っているとまでは言わないものの、造成などによらない起伏は、昔日と大差ないと考えていいのではないかと思います。
現在の低地は、千年前は湖沼や河川だったのかな、などと空想しながら、史跡巡りドライブを楽しみました。
起伏の多さは、往年の下総国が水運の国であることを語ってくれているようでした。
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○ 平将門公本據豊田館跡
住所:〒300-2742 茨城県常総市向石下121
○ 下総国亭跡
住所:〒300-2741 茨城県常総市国生
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