刃牙道 全22巻 | 物語の面白さを考えるブログ

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『刃牙道』は『範馬刃牙』の後に始まった新章。

刃牙が宿願であった父・勇次郎との闘いを果たした後で、物語はどこへ向かうのかと思ったら――。

新たな敵は、現代に甦った宮本武蔵!

歴史を超越した最強バトルの幕開きである。

――と、予想外の展開が来たゾ。

 

武蔵のミイラから採取したDNAを素にして作成したクローンの肉体に、霊媒師によって武蔵の魂を降霊させるという荒業で現代に甦った〝本物の〟宮本武蔵。

SF漫画でもオカルト漫画でもないので、その過程にツッコむのは野暮というもの。

格闘漫画なんだから最強バトルが見られればいいんだよ、の精神で許容すべし。

さて、この板垣恵介版の宮本武蔵、実はかなり好きなキャラクターである。

魂が宿る前の肉体は、渋いイケメンで、「強そう」な印象だったのに、魂が宿った途端に人相が豹変し、「あ、こいつ絶対にヤバい奴だ」に変わりました。

「強そう」より「ヤバそう」の方が、危ない奴に決まってるでしょ!

絵の力で強烈なインパクトを与えられた私は、一瞬で板垣版・武蔵の虜になったのでした。

 

このギョロ目がヤベーのよ

 

歴史上の剣豪で最強は誰か? といった議論で、板垣先生は武蔵を推しているらしい。

そこでついに、「刃牙」世界に武蔵を降臨させるという 暴挙 快挙に到ったわけだ。――らしい。

連載第1回の扉絵に記されたアオリが、「吉川先生、あの武蔵、多分ちがいます」だったと記憶している(細かい文言の間違いは勘弁してください)。

吉川英治の小説に書かれた求道者としての武蔵は、真物の武蔵とちがう、と板垣先生は言うのである。

当然、それを原作とする『バガボンド』の武蔵もちがう、と、これは板垣流の宣戦布告であろうか。

宮本武蔵の実物なんぞ、誰も見たことがないのだから、作家ごとに異なる「宮本武蔵」観があっていいと思います。

ちなみに、「刃牙」のスピンオフ小説を手がけた夢枕獏先生の描く武蔵は、腹から犬の首を生やした農夫を叩き斬るような武蔵である。

 

猫 「武蔵本人より斬られる側の方がオカシイ」

 

板垣版・武蔵は、求道者とは上辺の擬態にすぎず、その実態は稀代の反則魔、フェアプレー精神など糞食らえで相手を殺しにゆく武蔵である。性格は俗物で、剣によって有名になり、もてはやされたいと願う名誉欲・承認欲求のモンスターなのである。

吉川英治版の対極を行っておりますなあ。実にヨロシイ。

 

武蔵を登場させたはいいものの、格闘漫画として問題がひとつ。

武蔵は剣豪であるから、その最強は帯刀を前提とする。

対する、現代の格闘家たちは、素手である。――「刃牙」は素手による最強をテーマとしてきた漫画だ。

武蔵を敵とする以上、「刀 VS. 徒手」になるしかない。

つまり、対戦の条件が平等でないのである。

剣豪の中で最強を決めるなら、全員が帯刀している前提なので、条件は平等である。

格闘家の最強議論なら、全員が「徒手」という土俵にあがるので、やはり平等である。

ところが、「最強の剣豪と最強の格闘家は、どちらが強いのか?」という議論になると、条件の不平等という問題に突き当たってしまう。

『刃牙道』は、この問題に、どう取り組んだのか?

 

問題を解決する方向性は二つある。

対戦条件を、格闘家が剣豪に合わせる。

対戦条件を、剣豪が格闘家に合わせる。

前者では、格闘家が武器を使用することになる。

これは、宮本武蔵 VS. 烈海王にて実現した。

「火器の使用以外、すべてを認める」という条件のもと、中国拳法の達人・烈海王は武蔵に挑んだ。

格闘家の側に武器の使用を許可したからといって、必ずしも有利に働くとは限らない。格闘家は、通常、武器の訓練をしていないからだ。

その点、烈海王は適任であった。中国拳法には、武器術の体系も含まれているのだから。

この闘いの結末は、凄惨なものとなった。

武器を以て命のやりとりをする以上、その決着は一方の死を以て迎えるしかない。――この理屈は、物語そのものが要請してくる類のものである。

物語が、作家に対して、物語を成立させるための要件を突きつけてくる――こういうことは、実際にあるのである。

この要件を満たさなければ、物語性が崩壊する、そういう類の要件である。

板垣先生は、ここから逃げなかった。

武蔵は、人殺しに躊躇のないキャラクターである。

人を斬り殺すという手段によって、名誉の階段を登りつめたいと願望しているキャラクターである。

そして、彼の振るう剣とは、紛れもなく、人殺しの道具である。

対する烈海王は、強さの探求に飽くなき執着を持っているキャラクターである。

己の強さを極めたい――そう願っている。

「命が惜しいから闘わない」「勝てない相手だからやめる」といった発想のないキャラクターである。

この二者が激突したら、何が起こるのか――。

結果的に、烈海王が異世界に転生するスピンオフ作品を誕生させるに到ったのでありました。

 

もう一つの方向性――。

武蔵が、刀を手放し、徒手で格闘家と向き合う。

武蔵本人が、その条件を承諾する、というストーリー展開にすれば、一応は成立するものの、それだと、「伝説の剣豪と闘う」という作品のテーマ自体がスポイルされてしまう。剣豪は、剣を振るから剣豪なのだ。

一見、手詰まりのようであるが、ひとつ、妙手が存在した。

キーワードは「無刀」である。

剣の道を極めんとする武蔵は、数多の実戦と思索を重ねた結果、ひとつの到達点を想定するに到った。

剣を自由自在に操ることの究極、それは、剣という道具に頼らず、剣を振るうこと――すなわち無刀。

剣を手放してなお、その身に剣を宿している境地。

武蔵の流派「二天一流」は、無刀に到る過程にすぎず、剣を自身の腕の延長と見做したがゆえに、左右の手に一振りずつ刀を握るというスタイルを採用したのであった。

生前の二天一流は未完成であり、現世に甦った武蔵は、範馬勇次郎との闘いの最中、二天一流の完成形に開眼し――。

 

「無刀」というアイディアは、妙案であると、膝をたたいて感動したものである。

これなら、武蔵を「徒手」の土俵にあがらせても、「剣豪」というアイデンティティは損なわれない。

彼は、剣士としての理合――しかも究極の――を体現している存在だからだ。

「剣豪 VS. 格闘家」の闘いは、武器の使用の可否という条件のすり合わせから脱却し、「剣の理合 VS. 格闘技の理合」という、術理の競い合いへと昇華されることとなる。

宮本武蔵という剣理の究極形に対し、刃牙はどう挑むのか――。

この物語は、主人公の刃牙が、「範馬刃牙という力の形」の究極形を目指す求道の物語である。

だから、『刃牙道』と名付けられた。

 

……そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。

 

「やっぱり、武蔵が剣を持っていないと、締まりませんね」

そう言い出したのが、板垣先生自身だったのか、編集者などの他の誰かだったのか、それは知りません。

とにもかくにも、無刀に開眼しかけた武蔵は、その後で方向転換をするのです。

テレビ出演をきっかけに、刀を携えて警官隊を相手に大立ち回りをやらかし、結果、大勢を斬殺した殺人者となってしまいました。

対吉岡一門を彷彿とさせる、多対一の警官隊斬殺のエピソード――抜刀した武蔵の強さ、怖さ、狂気を印象づける――が挿入された意味は何でしょうか。

結局のところ、「剣豪 VS. 格闘家」というテーマは、「戦国時代の剣豪 VS. 現代の格闘家」――すなわち、「命のやりとりという一回きりの勝負で鍛えられた者 VS. 命のやりとりを伴わない、再試合の可能な勝負で鍛えられた者」というテーマにすり替えられたのです。警官隊は格闘家ではありませんが、戦なき時代の兵(つわもの)と読み換えて、「再試合の可能な勝負で鍛えられた者」のカテゴリーに含めてよいでしょう。

最終戦――刃牙 VS. 武蔵にて、このテーマに回答を示し、物語は幕を下ろしたのでした。

 

どうしてこうなった!?