『ブッダ 神々との対話』 を読む 第34回 | 物語の面白さを考えるブログ

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第四章 サトゥッラパ群神

 

  第五節 咎め立てする神々

 

 

サーヴァッティー市のジェータ林・〈孤独なる人々に食を給する長者〉の園に住していた釈尊のもとを、多くの〈咎め立てする神々〉が訪れた。

釈尊に挨拶をすると、神々は空中に立った。

或る神が、次の詩を唱えた。

 

「自分が実際にあるのとは異なったふうに自己を誇示する人にとっては、自分の享受するものは、盗みによって得たことになる。――偽りをなす賭博師のように。

自分のなすことを語れ。自分のしないことを語るな。(後略)」

 

人は誰でも、多かれ少なかれ、自分を実際よりも大きく見せて生きているものです。

その理由は、「自分が一番かわいい」から――自己への執着でしょう。

他人によく思われたい、他人から軽侮されたくない、そういった欲と恐れから、自己を誇大に表現します。

「誇大に表現された自己」を利用して得たものは、盗みによって得たも同然だと〈神〉は指摘します。報酬と、それを得た自己とが釣り合っていなければ、詐欺の誹りを受けても仕方ないと言えます。

そのようにして得た報酬によって、喜びを感じるかもしれませんが、それは所詮、一時的なものにすぎず、すぐに苦しみの原因となります。

報酬に執着すれば、自分を大きく見せることに汲々として、心の平穏を失います。そして、報酬を失うことを恐れるようになり、または、本来の自己の卑小さを看破されることを恐れるようになり、あるいはその両方を恐れるようになり、心の平穏を失います。

だから、平穏を得ようと願うなら、自他に嘘をついてはいけないのです。

一般論としては、上述のように言えるでしょう。

この場面では、神々は、釈尊の暮らしぶりを見て、彼を非難しています。

釈尊は、国王から寄進を受け、いい暮らしをしています。その一方で、弟子には執着を捨て、質素を尊べと教えています。それは言行不一致ではないのか? 釈尊自身、本当は執着を捨て切れずにいるのに、それができたと吹聴しているのではないか? と。

 

釈尊は応えて言った。

 

「安定している堅固なこの道は、ただ〔口先だけで〕語るだけでも、あるいはまた一方的に聞くだけでも従い行くことはできない。

心をおさめて、〔この道を歩む〕思慮ある人々は、(中略)世の中にあって執著をのり超えている。」

 

これを聞くと、神々は空中から地上におり、釈尊の両足に頭をつけて跪き、咎め立てしたことを懺悔した。

釈尊は微笑した。

神々は空中に昇って行きながら、さらに咎め立てを述べた。

 

「罪過を告白する人々の〔懺悔を〕受けいれない人は、内に怒りをいだき、憎悪で重く、怨恨をまとう、と。

もしもひとに罪過が存在しないならば、この世で過失(道から外れること)が存在しないならば、そうして怨恨を静めないならば、何によってこの世に善き人があり得るだろうか、と。(後略)」

 

罪のない人はいません。間違いを犯さない人もいません。

それらの懺悔を受け容れないのは、心に怒りがあるからです。

その怒りを静めないかぎり、「善き人」がこの世に現れることはあり得ないでしょう。

裏を返せば、「善き人」を自称するなら、その人は、心に怒りを持っていてはいけないことになります。

神々は、釈尊を試すかのようなことを言っています。

 

釈尊は言った。

 

「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに過失は存在しない。(中略)かれは、思慮深き者として、常に気をつけている。

罪過を告白して〔懺悔するのを〕受け入れない人は、内に怒りをいだき、憎悪で重く、怨恨をまとう。その怨恨を、わたしは喜ばない。そなたの罪過〔の告白〕を、わたしは受け入れる。」

 

この第五節では、歴史的人物としてのゴータマ・シッダールタが、非難を受けていたことが垣間見えます。

仏教教団の拡大にともない、教祖としてのシッダールタが、教祖としてふさわしい体裁を周囲から要求されたことは、想像に難くありません。

その外面と、教えとのギャップが、人々の疑念を招いたことも、また、容易に想像できます。

現代のスピリチュアル業界に目を転じても、同様の疑念はつきまといます。

「私は悟った」と自称する人が本物であるか否か。

どうすれば、凡夫は見極めることができるでしょう。

その人物の内に怒りがあるかどうか――そのあたりが鍵になる気がしてなりません。

 

 

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