『鬼滅の刃』 の小説版。
矢島綾先生の方とは異なり、こちらは原作のストーリーを小説化したもの。
収録範囲は、コミックス第1~4巻の途中。「藤の花の家紋の家」を出立し、那田蜘蛛山に向かったところでエンド。
挿絵は、原作コミックスをそのまま使用しており、描き下ろしイラストはありません。
画像のとおり、対象年齢は小学上級・中学~となっており、一般小説というより、児童書に近い読み物に仕上がっています。平易な文章で、漢字を平仮名にひらいているところが多数あり、漢字にはルビが振ってあります。
著者の松田朱夏先生は、私は今まで存じ上げていなかったのですが、1990年代から作品を発表されている方です。ベテラン作家ですね。近年はノベライズが多いようです。
松田朱夏先生の個人サイトです
小説一冊分で、竈門家の惨劇、鱗滝さんの修業、最終選別、沼の鬼との戦い、浅草の邂逅、鼓屋敷、藤の花の家紋の家、と、これだけの内容をこなしているので、各エピソードが薄味になるのは、しかたありません。
凝った文体でもなく、スラスラと読めるので、物足りなさを感じるかもしれません。
――と、否定的なニュアンスで感想をおっぱじめましたけれども、ワタクシ的には、好印象。
「これはプロの仕事だ」と心躍らせながら(おこがましくてスミマセン)読了しました。
スラスラ読めると書きましたが、読者にストレスを与えず、かつ、わかりやすく書くのって、かなり難しいのよ。
随所に〝省略と圧縮〟が利いているのがいい。
一例として、炭治郎の羽織が市松模様である、という情報を、どこで提示するか。
素直に考えれば、人物の初登場シーンで説明するのが普通です。
「鬼滅」のキャラは、ビジュアル面で強烈な特徴を多々有しているので、それらを逐一書いていったら、外見の説明だけで、相当な字数を使ってしまいます。
それだとストーリーのテンポが落ちるし、コミックス3巻以上分のエピソードを消化しなくてはいけない事情もあり、あまり紙幅を使ってもいられなかったでしょう。
炭治郎のビジュアルは原作が有名につき知れ渡っており、逐次的に説明を入れなければならない緊急性はない。かといって、まったく触れないのも、小説として片手落ちであろう。
で、どう処理したか。
初任務(沼の鬼退治)に就く支度をするシーン、支給された隊服を着用し、その上から、いつも着ている羽織をまとうところで、羽織の柄が市松模様であることを説明したのでした。
鬼殺隊のユニフォームを初めて着用するシーンで、服装に関する説明をするのは自然な流れであります。
もし、初登場時に羽織の柄を説明していたら、ここで同じ説明をくり返すことになり、リソースの無駄となってしまいます。
初登場時での説明を〝省略〟することにより、全体の文章量が〝圧縮〟されました。
このように、合理的に無駄を排除することによって、読みやすい文章でありながら必要な情報はきちんと含まれているという奇蹟が実現したのでした。
薄味の料理だからといって、美味しくないわけでも、栄養素が足りないわけでもないのです。
禰豆子の着物の柄――麻の葉文様――の説明がどのタイミングでなされるかは、是非、ご自身の目で確かめていただきたい。
原作コミックは、小説で言うところの「三人称多視点」で進行します。
ノベライズもそこは同じなのですが、視点人物がメインキャラに絞られており、視点の数が無闇に増えないよう抑えられています。これは、対象読者が「小学上級・中学から」であることへの配慮であろうと思われます。
スティーブン・キングの長編小説なんかでは、膨大な数の視点人物が登場します。事象を多角的に捉えられるメリットがある半面、読者が視点人物を記憶・整理できず、物語を把握するのに苦労を伴うデメリットが生じます。それと、視点が多い分だけ、本が厚くなります。
松田朱夏先生は、キングとは逆ベクトルの手法で、視点を減らす道を選びました。
浅草で、鬼舞辻無惨が、炭治郎に追手を差し向けるシーン(無惨さま視点)。
原作では、矢琶羽・朱紗丸コンビが、足跡を発見し、たどる様子が描かれていますが、ノベライズ版ではカット。
彼らが次に登場するのは、珠世さんの診療所が襲撃される場面です(炭治郎視点)。
敵が追手を差し向ける → 主人公のところに追手が来た ――この流れなら、途中経過を省いても、何の問題もありませんね。
視点人物を減らし、追跡シーンを〝省略〟したことで、ストーリーが〝圧縮〟され、シンプルになり、より理解しやすくなりました。
対象読者を考慮した采配だと思います。
「鬼滅」はネタの宝庫です。
すでに小説版を手掛けている矢島綾先生や、「冨岡義勇 外伝」をものした平野稜二先生は、過剰な「鬼滅」愛ゆえに、可能なかぎりネタを拾う傾向があります。
このことが、同人の二次創作っぽい趣きを作品に与えていることは、否めない事実。
一方、松田朱夏先生は、ネタの山に剪定ばさみをキッチリ入れています。
浅草での、うどんの屋台を引いている〝豊さん〟とのやりとりは、まるまるカット。
カットしてもストーリーの進行に差し支えないシーンは、惜しげもなく捨てます。
一本の小説作品としての完成度を優先したゆえの決断でしょう。それでいて、メインキャラ同士のかけあいによるネタは盛り込んでいます。
このバランス感覚に、私は惜しみない拍手を送りたいのです。
では、この作品が、ベテラン作家の職人芸によって手堅くまとめられただけの、深みのないものかと言えば、それは違います。
小説家の眼差しで原作の深部までを見通した痕跡が窺えるからです。
私が一番唸ったのが、第一話のナレーションの処理の仕方。
「幸せが壊れる時にはいつも血の匂いがする」
このナレーションの問題点は、過去記事「「鬼滅」のナレーションについて」で指摘しました。
幸せな暮らししか知らない炭治郎から、このような観念が出てくるのは不自然ではないか。作者(吾峠先生)の声が混線したのではないか。といった指摘でした。
ノベライズでは、炭治郎自身、なぜそんなことを思ったのかわからない、〝予感〟のようなものとして扱われています。
なるほど、と唸りました。
〝考察者〟は原作の不備を指摘するだけで足りますが、〝小説家〟はその不備を解決しなければならない。
ナレーションを地の文にする「逃げ」を打たずに、正面から問題に取り組み、見事解決した手腕に脱帽です。
同じく第一話。血まみれの禰豆子が家の外に倒れているのを、炭治郎が発見するシーン。ここで炭治郎は、激しく息を切らせています。これは、鼻の利く炭治郎のことですから、遠くから血臭を嗅ぎつけ、急いで駆けつけたことを意味しています。
不覚にも、私はこの表現の意味するところに気付いていませんでした。
ノベライズでは、きちんと描写されています。
原作では省略されている部分です。
これまでは〝省略〟と〝圧縮〟について解説してきましたが、原作の不備やわかりにくい箇所については、適切に補正・補足が入っていることも指摘しておきたい。
これは、原作に対する正しい理解がなければ、不可能なことです。
もう一ヵ所。
「藤の花の家紋の家」に、炭治郎たちは、骨折が癒えるまでの期間、滞在したわけですが。
善逸と伊之助の賑やかさに、家族を失った炭治郎の心が、幾分かすくわれたことを窺わせる文章が、さりげなく書かれています。
原作にはまったく描かれていない心の機微です。
ネタは捨てても、拾うべきキャラクターの心情は、きっちり掬い上げる。
松田朱夏先生の、原作に対する向き合い方、小説家としての仕事ぶりに、敬意を表して頭を低くしつつ、すっかり感激してしまったのであります。