◇第39話◇ 走馬灯の中 | 物語の面白さを考えるブログ

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自分の「役割」を果たせない奴は

生きている価値がない――

 

それが累の思想。

父には父の、母には母の、兄や姉には

年長のきょうだいとしての「役割」がある。

「家族」という〝形〟に固執する累は、

家族の面々を「人格」ではなく「役割」でしか見ない。

 

累の思想の歪みは、絵空事ではなく、

現実の社会でも十分な威力を振るっていると思います。

社会の成員となることは、期待される「役割」を引き受けて

責任を果たすことと不可分であります。

ですが、極端に走ると、「役割」は「人格」を抑圧します。

それが行き着いたひとつの形が、

累の作ったDV家族と言えましょう。

そこには、恐怖と憎しみと息苦しさしかありません。

何事も、バランスが大事。

「役割」を通じて「人格」が自己実現を果たせる社会が

理想的です。

理想に偏りすぎるのも、もうひとつの「極端」なので、

注意が必要ですが。

 

引き渡しを拒否する炭治郎から、

累は力づくで禰豆子を奪います。

反抗的な禰豆子を、蜘蛛の糸で逆さに吊るして、

お仕置きタイム。

禰豆子は失血によるダメージを回復するため、

逆さづりのまま眠りに就きます。

このシーンで、累は禰豆子の気配に、

通常の鬼とは異なるものを感じています。

禰豆子が、いずれ太陽を克服することを知っている今、

読み返してみると、血液の組成を変えるための

眠りだったのではと思い当たります。

 

炭治郎は折れた刃で果敢に攻撃を仕掛けます。

水の呼吸・拾ノ型・生生流転――

一旦は、累の糸を斬ることに成功したものの、

さらに強度を上げた糸の前に、死を直観します。

その瞬間――

「鬼滅」名物〝走馬灯〟が発動!

無数の記憶が一瞬で甦る。

 

記憶は、ほとんどが人物ですが、

ここになぜか、彼岸花が登場します。

これが「青い彼岸花」ではないか、との考察がありましたが……

どうなのでしょうか。

無惨さまが禰豆子に夢中で、「青い彼岸花もう要らね」となった現在、

その重要性は薄れたように見えますが……

本当にそう切り捨ててしまってよいのでしょうか?

これが吾峠先生の仕掛けたミスリードで、

青い彼岸花には、無惨さまの予想できなかった効果が

隠されており、物語上の役割をまだ果たしていないのでは?

いろいろ疑ってしまいます。

疑心暗鬼という鬼に取り憑かれたようです。

南無阿弥陀仏(岩柱並感)。

 

走馬灯の中に亡き父の姿を見たところで

次回へ続く!

 

 

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