父・井上光晴、母、そして瀬戸内寂聴をモデルに、逃れようもなく交じり合う3人の〈特別な関係〉を、長女である著者が描ききる。愛とは、〈書くこと〉とは何か。各誌で話題沸騰となった問題作、いよいよ文庫化!
基本的に恋愛ものが好きじゃないし、たとえ高名な小説家であってもおじさんとおばさんの不倫なんか私には1㎜も関係ないからなあと思ったけれど、井上荒野さんの作品は好きです。
その井上荒野さんの父親の事となるとしかもそれを娘本人が書いたとなれば読んでみようかなと思わずにいられない。
不勉強なので井上光晴さんがどんな人間なのかも、作品も知らなかった。瀬戸内寂聴さんの小説は若い頃によく読みました。歴史物とか面白かった。
そんな有名作家の二人と井上光晴の妻の3人を描いたフィクション、それが『あちらにいる鬼』です。
しかしこれはドロドロした三角関係を描いたものではないし、奇妙な清潔感がある作品だと思う。
フィクションだからか、当事者と言える娘が書いているからかわからないけれど想像とは違う作品だった。
パートは笙子(井上妻)とみはる(瀬戸内)の部分で成り立っていて、みはると白木篤郎(井上光晴)の出会に始まり、笙子の晩年(亡くなるまで)まで続く。
まあ白木は驚くほどのクズ男だと思う。しかしクズ男にはクズ男にしかない魅力があるものだ。だから白木の女関係は絶えない。みはるがいてもそれは変わらない。
ただその他大勢の女たちは多分誰でもよかったんだろうけれどみはるは特別だったのだと思う。
笙子は白木のだらしなさを知っていても1㎜も動じることもなく淡々としている。それはそれでどうなのかと思うくらい動じたところを見せない。感情を押し殺す内省タイプと言える。
一方、みはるは白木との恋愛と煩悩に苦しんで出家の道を選ぶ。
みはるの方が感情が露わな感じがする。
こんなにタイプが違ったらどっちも好き、愛しているという白木の気持ちもわかる気がする。
笙子とみはる、タイプは違うけれど魅力と存在感は拮抗している。
まるで鏡に写る一人の女のように思える。
夫婦というものは恋愛要素もあるだろうが、恋愛感情よりもまず共同体意識なんじゃないかと思う。
一緒に生きて、闘う。子供を育てる、暮らしを成り立たせる。
それはもう相手を好きだ嫌いだの問題じゃなくて戦友みたいなものなのだ。
この作品の登場人物の場合は3人が見えない共同体なのかなと思う。
もちろん綺麗事しか書かれていないということもあるだろうけれど、相手への憎しみは感じられない。
笙子とみはるはお互いに馴れ馴れしい感情はもちろんないけれど、尊敬にも似た気持ちで相手を認めているようだ。
笙子、みはるの二人がそれぞれのやり方で白木を愛し、支えている。
他人事なのでこういう関係があってもいいじゃないかと思う。
馴れ馴れしくない女二人の関係がとても良い。
それにしてもこの題材は井上荒野にしか書けないけれど、よく書けたなあと思う。
井上さんの作品にはクズ男がよく登場する、この作品を読んでなるほどと思った。
単純に言えばファザコンなんだろうなと思う。
それにしてもこんな生々しい題材でフィクションを書くことの難しさよ。小説家の業を感じる。
白木の死後の部分がとても気に入っている。
人にはそれぞれの生き方があって、それをいいの悪いのと簡単に言うことはできない。
大切なのは自分が後悔のない人生を送ることだろう。
「髪を洗ってやるよ」。それは、男と女でいられる最後の夜のことだった。1966年、講演旅行をきっかけに出会った長内みはると白木篤郎は、それぞれに妻子やパートナーがありながら男女の仲となる。もうすぐ第二子が誕生するという時にもみはるの元へ通う篤郎だが、自宅では幼い娘を可愛がり、妻・笙子の手料理を絶賛する。奔放で嘘つきな篤郎にのめり込むみはる、全てを承知しながらも心乱すことのない笙子。緊張をはらむ共犯とも連帯ともいうべき3人の関係性が生まれる中、みはるが突然、篤郎に告げた。「わたし、出家しようと思うの」。
映画の方も観ました。
やはり私は原作に勝てる映画はほとんどないだろうとは思うけれど、キャストは良かったんじゃないかな、冒険していないといえばしていないけれど。
トヨエツみたいな小説家に会ったら好きになっちゃう女はたくさんいるだろうから説得力はあった。でもクズはクズだからね。
出家シーンで実際に剃髪しちゃうのは寺島しのぶさんの寺島しのぶらしさ全開だなと。一方広末さんは現実の広末さんはぶっ飛んでいるようだけれど、笙子役のすっと背筋が伸びたような感じをよく演じていた。
どちらかと言えばみはるに重心があるような映画だったけれど、笙子がいる場面もいない場面も笙子なしには成り立たない強い存在感のある役柄だと思う。笙子は美味しい役だったんじゃないかな。