来週12/21(火)21時〜22時、NHK BSプレミアム「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」で、「地下鉄サリン事件 27年目の“真実”」が放映されます。
27年前、自衛隊医官として自衛隊中央病院に勤務していた当時、この事件に関わった一人の医師として、その時のことを本ブログにも紹介しておきたいと思います。
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1995年3月20日に起こった地下鉄サリン事件…オウム真理教が起こした未曾有のテロでした。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると共に、今もなお、PTSDなどの後遺症で苦しむ方々の症状が少しでも改善しますようお祈り申し上げます。
なぜ、あの日、自分は自衛隊医官として派遣された聖路加国際病院で、多くの負傷者がサリンによる中毒であることを診断でき、その初期治療に硫酸アトロピンとパムを使用しないとならないと即座に聖路加の先生方に具申できたのか?
先日、NHK BSプレミアムの番組「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」という番組のインタビュー取材を受けました。番組制作スタッフの方が、聖路加国際病院の先生から、当日、私が配布したサリンに関しての文献資料を見せてもらえたということで持ってこられたのです。自分ももう持っていない当時の貴重な資料を再び目にして当時のことが鮮明に蘇ってきました。
備忘録的にその一部をここに書き記しておきます。
自衛隊の医官が普通の医学部を卒業した医師と違うのは、戦時(有事)の医療を学び、訓練を受けていることです。防衛医大卒後、陸上自衛隊の医官となった自分の場合、3回軍医としての教育訓練を受けました。1回目は防衛医大卒後すぐに幹部候補生学校@久留米で。2回目は、2年間の初任実務研修(研修医)を終えた3年目に初級幹部課程(BOC)を衛生学校@三宿で。最後は専門研修を終えた7年目に上級幹部課程(AOC)を同じく衛生学校で。これらの課程では、幹部自衛官としての知識・技能・素養の習得も課せられます。
AOC入校は1995年1月10日でした。3月17日の卒業までの約2ヶ月間、臨床から離れ、学校の教室での座学とまだ寒さも厳しい富士の演習場での大量傷者訓練など自衛隊医官として、みっちり鍛えられます。
幹部候補生学校、BOCでは「この平和な日本で毒ガス?無い無い」という感じがどこかにあった気がします。しかし、AOCではその半年前に松本サリン事件があり、「この日本でサリンなどという恐ろしい毒ガスが使われたんだ…」と、改めて姿勢を正して特殊武器衛生・特殊武器防護の授業を聞いていました(その授業を担当していた教官が、以前の赴任地であった旭川駐屯地は第2後方支援連隊衛生隊の元隊長で結婚式の披露宴で主賓の挨拶をいただいた上官だったため、より一層授業を真面目に聞いていたかもしれません)。
もう一つ、自衛隊には自己錬成という時間があり、AOC入校中は、16時から17時がその時間帯でした。普通の自衛官はだいたい体力錬成(ランニングや筋トレ)するのですが、教官が「医官たちは、英語が得意だろう。ここに最新版のEmergency War Surgery NATO Handbook がある。これを担当を決めて、和訳して欲しい。諸君以外の衛生職種隊員(看護官、薬剤官、臨床検査技師や放射線技師の自衛官)のために錬成時間はその作業をお願いしたい。」と僕らに投げかけたのです。たまたま僕の担当箇所が神経剤、毒ガスでした!
そして、衛生学校のAOCでは卒業試験もあるのです。卒業の10日前から3日間、入校期間中に学んだ各科目の試験があり、それに合格しないと原隊復帰させてもらえません。しっかり勉強して卒業試験に備えました。特殊武器衛生・特殊武器防護で出題された問題は、「戦場で神経剤と思われるガスに晒された隊員が示す臨床徴候を5つ書け。そして、初期治療について述べよ。」というものでした。地下鉄サリン事件の丁度10日前にこの答えを無心で解答用紙に書き込んでいました。
・胸部圧迫感又は収縮感があった時
・呼吸困難を感じた時
・自分又は近くの人の瞳孔が小さく、帽針頭大になった時
・眼に引っ張られるような弱い疼痛を感ずる時
・瞳孔収縮により視野が何となく薄暗く感ずる時
初期治療:硫酸アトロピン2mgを筋肉内注射する
卒業試験にも無事全員合格し、3月17日の金曜日に晴れてAOC課程を卒業。衛生学校と同じ敷地内にある自衛隊中央病院の医官室に、入校中にもらった教本、資料など一式を自分の机の上に置いて家に戻りました。配布資料等は、中には「部内限り」や「注意文書」などもあったため、そのままゴミ箱にポイって訳にはいかなかったのです。
週が明けた3月20日の月曜日、約2ヶ月ぶりに病院に復帰しました。病棟に入院患者がいるわけでもなく、医局や外来、病棟にAOCから戻ってきたことを報告し、8時半頃に外来待合ロビーを歩いていたところ、テレビのニュースで「都心地下鉄内で爆発事故の模様」というアナウンサーの声が聞こえました。同時に、ポケベルが鳴り、医局に戻ってみると、「青木医官、警視庁から省庁間協力で自衛隊に依頼が来た。地下鉄内で起こった爆発事故で多くの負傷者が出ているので救援を求むとのことだ。その白衣のままでいいので、玄関前に待機しているアンビュ(救急車)に乗って、LO(連絡担当幹部)が行っている飯田橋の警察病院へ直行してくれ。LOは青木医官もよく知っているM医官だ。」と、上官からの指示がありました。AOCに入校していた防衛医大9期の陸上自衛隊医官を中心に、海上・航空自衛隊の医官と看護官数名もメンバーに組み込まれ、午前9時前に自衛隊中央病院を出発。その際に、なんとはなしに「何かの役に立つかもしれない」と思い、医局の机の上に放置してあった衛生学校でもらった教本や資料を一緒に持って行ったのでした。
9時半前に警察病院に着くと、先輩のM先生が情報収集した状況を説明してくれました。「午前8時頃、都心のいくつかの地下鉄路線内で大量傷者が発生。当初は爆発事故との情報であったが、どうやらそうでは無い模様。聖路加国際病院他、いくつかの病院に多くの負傷者が搬送されている。手分けしてそれらの病院に行き、初期治療の援助に当たって欲しい。おっ、青木!お前は先週までAOCだったな。大量傷者には慣れてるだろう。一番、患者数の多い聖路加に向かえ。」と。仲の良い先輩だったので、他の医官を指名するよりも頼みやすかったんだと思います。僕自身も、阪神・淡路大震災(AOC入校中の1月17日に起こった)の際の医療支援部隊としては、行くことが叶わずにいたため歯痒い思いをしていたので、「先輩、任せてください。阪神・淡路の時に力になれなかった分、一生懸命全力でやってみせます!」と応えていました。
再び、アンビュに乗り、飯田橋から築地の聖路加国際病院へ向かいました。天気の良い、朝から暖かい春の日でした。皇居あたりの外堀通りは一般車両の通行はストップされ、救急車やパトカーがサイレンを鳴らしながら、走っている光景は異様なものでした。地下鉄の地上出口付近には多くの人がうずくまり、倒れて口から泡を吹いている人もいました。「一体、何が起こったんだろうか?」
10時前に聖路加国際病院に到着。副院長先生、内科部長先生に「自衛隊中央病院から派遣された医官と看護官です。お手伝いさせて下さい。」と挨拶したところ、副院長のM先生が、「自衛隊の先生方、ありがたいです。うちでは外来診療をストップさせ、手術も緊急オペ以外は全て延期に。非番のスタッフたちにも全員招集をかけて対応しています。すでに300名以上の負傷者がいます。日野原院長が前線に立ち、軽症、中等症、重症の分類をしてします。自分で歩けるような軽症患者は2階にある礼拝堂へ、中等症はストレッチャーで9階の病棟へ、重症患者は救急外来からそのままICUへ運んで対処しています。先生方は軽症患者のいる礼拝堂へ行って診察治療にあたっていただけますか。」同時に神経内科のO先生が「実は、すでに、亡くなった方がお一人。CPA(心肺停止状態)の方がお二人、痙攣を起こして意識のない重傷者がお二人います。これまでの情報では、アセトニトリルが検出されていて、それによる中毒だと考えたのですが、過去の文献を調べてもそこまで重篤になるようなことがアセトニトリル中毒では考えられず、何がなんだがわからないのです。」と言われました。
すぐに2階のトライスラーホール(礼拝堂)に行き、負傷者の診察を開始しました。5〜7人、時間にして10分もなかったでしょうか、皆一様に「胸が押されるようで、息が苦しいんです」、「目の前が暗くて見えにくい」、「目の奥が痛いです」という訴えを…背中に緊張が走りました。「こ、これは、10日前に答案用紙に書いた5つの臨床徴候だ!」。改めて、患者の目を見ると、見たことのないピンポイントの縮瞳を全員が呈しています。
すぐに、聖路加の先生に、「これは神経剤、いわゆる毒ガスに晒された時の症状です。サリンかどうかはわかりません。しかし、診断に間違いはないと思います。アセトニトリルは有機溶剤なので神経ガスを作るときに使われたのでしょう。初期治療は硫酸アトロピン2mgを筋注か静脈ルートから静注して下さい。そしてPAMはありますか?根本的な解毒剤です。できるだけ早期に投与しないとなりません。」と具申しました。「根拠はこちらをご覧ください。」と、持ってきていた衛生学校の特殊武器衛生・特殊武器防護の資料一式を見せたわけです。日野原院長には、「自衛隊からは毒ガス専門の医官が応援に来てくれていて、サリン中毒との診断の下、硫酸アトロピン投与とPAMの使用をアドバイスされました。」との報告がいったそうです。
(衛生学校で学んだ内容1)
(衛生学校で学んだ内容2)
(聖路加国際病院で配られた自衛隊資料)
(麻生幾著「極秘捜査」より)
後日、米軍とイスラエルの軍医が自衛隊中央病院に来て、当時の状況や診断・対処法について細かく聞かれました。「このような状況で死者が十数名というのは、ミラクルだ。」と言って帰って行きました。
自衛隊は平時にきちんと有事に備え、しっかり準備しているのです。色々な偶然が重なって、自分が600名以上の負傷者を受け入れた聖路加国際病院に派遣され、多少なりとも日本国民のお役に立てたことは僕の人生で最も大切で貴重なことでもありました。