あるがまま 精神科医 松薗りえこのブログ

あるがまま 精神科医 松薗りえこのブログ

アマラクリニック表参道 〒107-0062 東京都港区南青山3-10-38 1F Tel : 03-6438-9869

お薬をやめていきたい方・お薬以外の根本的な治療を探している方、ぜひご来院ください。お薬を使わないと通院期間も短くてすみます。
お気軽にご相談ください。

他のクリニックでたくさん薬を飲んで、数年間何もしていない20代の患者さんが、少しずつよくなっていくのを見ていると、しあわせになります。

 

 面白い友人がいて、

 

 会食のときに、「食べられないものありますか?」ってお店の人に聞かれて、

 

 「人間」って答えていた。

 

 今でも思い出したら笑う。

 

 お盆のときの家族での会食では、誰ひとり飲まない私に酒を勧めなかった。

 

 でも昨日は、20分に1回くらい、「いいから、いいから」と言われ、

 

 「このワイン本当に美味しいから、ひと口だけでも飲んでみたら」と。

 

 「いらない」と言ったら、匂いを嗅がせにくる。

 

 

 

 ワインとはいえ、2時間で8杯ずつくらいは飲んでいるみなさんに囲まれて。

 

 「いや、ほんとうに要らないんですって」

 

 と20分に1回は断る私。

 

 最後の最後に、結局飲まなかった私に対し、その面白い友人は、

 

 「半分かわいそう、半分うらやましい」と言っていた。

 

 わかる。そうなのよね。

 

 うらやましさが半分くらいはあるのだ。

 

 私もタバコやめられていないときには、禁煙した友人にそう思っていた。

 

 そしてお酒を飲んでいたときには、飲まない友人に対してそう思っていた。

 

 「先のことの不安を考えすぎて、特にネガティブに想像しすぎて、カウンセラーから『もはや趣味』と言われました」

 

 と笑っている。

 

 なんてすばらしい。笑えるようになったらこっちのものです。

 

 使える言葉ですね。

 

 私たちの思考・考えは生き抜くための知恵として不安や恐怖のストーリーを出しては、それを反芻してしまいます。

 

 このように言葉やイメージでいったん受け入れて突き放してしまえば、そうなったときの対処として役に立ちます。

 

 別の話ですが、

 

 この前、患者さんが「具合が悪くて帰れるかどうかわかりません」(身体的にではなくメンタル的に)と言うので、

 

 「いいですよ。つらいと思いますので帰れるようになるまで待合室でじっとしていてください。」と言いました。

 

 私たちは帰っていただかないと困るという考えが働いて、「そんなこと言わずにお帰りください」と言ってしまいがちですが、

 

 あえて、じっと座っているように伝えるわけです。

 

 大抵、待合室でじっと座っていることを何時間もできないですよね。

 

 ほどなくその患者さんはお帰りになりました。

 

 こんなふうに、禁止をせずにしていただきたいことと逆のことをあえて促すと、

 

 していただきたいことをしてもらえることがあります。

 

 「逆説志向」として、古い心理学の本に書いてある技法です。

 

 

 

 ある患者さんは、「最近お父さんを無視しています。それで母と言い合いになりました。」

 

 と言っていました。

 

 もちろんお母さんとしては、そうしないで欲しいのは当然なので、「そんなことやめなさい」と言うわけです。

 

 それで喧嘩になるのでしょうが。

 

 「無視しても問題ないですよ」「思う存分無視してください」

 

 と伝えました。

 

 たぶんそのほうが、何かのきっかけで逆のことが起こる可能性が高いので。

 

 「やめろ」と言うとその行動が余計強化されます。

 

 この逆説志向はまた、自分にも使えます。

 

 自分に「やっちゃだめ」と禁止することによって、ますます行動が強化されることありませんか??

 

 「いいのいいの。思う存分やっちゃって。」って言ってあげる。

 

 そのときは「もはや趣味」を添えるといいかもしれない。

 

 「あなたが自分を責めるのってもはや趣味よね。いいのいいの。思う存分やっちゃって。」

 

 「あなたが他人を責めるのってもはや趣味よね。いいのいいの。思う存分やっちゃって。」

 

 「あなたが健康を心配して健康情報ググるのってもはや趣味よね。いいのいいの。思う存分やっちゃって。」

 

 って具合に。

 

 そうすると深刻さが消え、気楽さが立ち現われ、

 

 いい方向にいきそうに感じませんか?

 

 

 今年の夏は去年よりも過ごしやすい。

 

 暑くなる時期が遅かったし、猛暑日が少ないせいもあるが、

 

 私ごとですがあんなに暑がりだったのがうそのように、35℃以上の炎天下であっても苦しさが減った。

 

 家のエアコンも去年は23℃に設定したうえで、扇風機を回していたが、

 

 今年は自動モードで十分。自動モードを1,2℃下げたりすることはあるが、それで涼しすぎるときすらある。

 

 寝るときは27℃のドライで十分。去年は25℃の冷房にしていた日もあったのに。

 

 これはなんなのでしょう。

 

 更年期を過ぎたせいもあるかもしれないし、お酒をやめたせいもあるかもしれないが、

 

 真夏はノースリーブやキャミソール以外着られなかった私が、薄手のジャケットを羽織っている。

 

 去年は夏の暑さを呪いながら、

 

 「この苦しみはずっと続くに違いない。だから東京を脱出せねば。」って真剣に考えていた。

 

 でも苦しみは続かなかった。

 

 

 

 炎天下でもてくてく歩いて近所のスーパーへ行き、メロンや枝豆を選ぶよろこびがある。

 

 今日も朝から「生ハムメロン」

 

 「朝ごはん何食べた?」

 

 「生ハムメロンで~す!」

 

 夏はいいねえ。

 

 クリニックの終業時間を30分早く切り上げたせいもあって、神宮球場の花火もほとんど見られた。

 

 いや、何が言いたいかというと、私たちって苦しいときはつい、「この苦しみは永遠に続く」みたいな錯覚をしてしまいがちだということ。

 

 そうとは限らないよね。と言いたかったのです。

 

 楽しいときもまたしかりだけど。

 

 楽しいときには「永遠に続くにちがいない」が「永遠に続かせねばならぬ」という執着にもなりがちだ。

 

 来年はもしかしたら「暑い」と苦しんでいるかもしれないけど、そんなことはどうでもいい。

 

 秋を感じさせる涼やかな風が吹き始めるまで、惜しみなく夏を楽しもう。

 

 保険診療でやっていると、厚生局ってところに施設基準を届け出て、それに基づいて保険点数をもらうことになり、

 

 ある時期届け出状況報告書っていうのを書くように言われる。

 

 そのなかでオンライン診療で通院精神療法をとったときに、出した薬の種類を詳細に聞かれた。

 

 抗不安薬0種類か1種類か2種類か、抗うつ剤0種類か1種類か2種類か。とか。診療した人に何を何種類出したかを数えて表にして提出するのである。

 

 細かいでしょ。

 

 まあ数えれば済むことなんだけど、これを数えているときに何か質問されたり、何か別のことをやらなきゃならなかったりすると、瞬時にモードを変えるのが大変だった。

 

 モードというかチャンネルというか。普段とは別のモードじゃないと、このような細かい計算ができないとわかった。

 

 ほんとうに、電話で患者さんからごく簡単な質問があっただけなのに、「あれ?なんだっけ?」と答えられなくなる。

 

 お仕事モード、精神科医モードはどこに行っちまったんだい?って状態だった。

 

 数日テレビや動画ばかり観ていて、受動モードになっていたら、ブログを書くことや俳句を詠むなどのモードに戻そうとしないと戻らない。

 

 戻そうとしても時間がかかった。

 

 いやほんとうに、錆びついてしまったのかと思った。

 

 

 

 リルケの「若き詩人への手紙」のなかに、

 

 何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。深い答え を求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、『私は書かなければならぬ』をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立てて下さい。

 

 という一節がある。

 

 これを読んだ私はリルケに従い、夜の最も静かな時間にちょっとお酒が入っていたかもしれないけど、真剣に真剣に掘り下げて、自分へ尋ねた。

 

 結果、母に「医学部やめる」「書くことを志す」って告げたのよね。

 

 全力で止められたけど。。。

 

 もうそろそろいいんじゃない?

 

 設定療法(セッティングセラピー)のいいところは、設定するだけという簡単さ。

 

 設定ボタンを押したあとは、その設定どおりに行動するだけなんです。

 

 

 お盆に兄弟姉妹やその家族と集まった。

 

 高齢の母が「もう最後かもしれない。。。」と言っていて、確かにいつが最後かはわからない。

 

 来年やろうねって言っても誰かが欠けているかもしれない。

 

 とはいえ、「最後かも。。。」と言っても、次がやってくるかもしれない。

 

 だから言わなきゃいいのにと思うが、我々はどうも、そういった区切りを自分でつけたような気になるのが得意らしい。

 

 うちの家族は大酒のみが多い。特に妹と上の弟は酒豪である。

 

 豪快に飲んでは大笑いしている。

 

 お正月のときは、この席で飲まないでいることに多少なりとも居心地の悪さを感じたものだが、

 

 あれから8か月以上たった現在、全く飲みたくない。飲む必要性を感じない。酒豪や飲んで愉快になっている家族が目の前にいたとしても。

 

 ノンアルビールで十分その気になれるし、かんきつ類でも絞った炭酸水があれば十分に肴のお供になる。

 

 それに酒を飲まなくても面白いことを言ったりやったりしている。

 

 そうしなくても問題ないとわかってもいる。

 

 今年還暦で母が88歳の傘寿。赤いちゃんちゃんこに大黒頭巾が私で、黄色いちゃんちゃんこに大黒頭巾が母。

 

 自分で買って東京から運び、いっしょに写真を撮った。

 

 従来被り物が好きな私は、しばらくそのままの格好でトイレに行ったり廊下を歩いたりして。

 

 妹や弟は笑っていたが気にも留めなかった。

 

 

 

 酒は何の役割を果たしていたのだろう。その必要性は何だったのか。

 

 振り返るとタバコもお酒も私の場合、どこかに所属するためのツールだったのかもしれない。

 

 誰かを喜ばせることも安心させることも、誰かの期待に沿うこともなく、

 

 どこかに所属することも役割を演じることもないのであれば、ツールの必要性はなくなる。

 

 時はさかのぼるけど、8月頭のある晴れた日に、今まででいちばん「すがすがしい」「爽快な」気持ちになった。

 

 説明が難しいんだけど、何かを頼りに生きてきたのが反転し、何にも頼らなくていいと知った感覚。

 

 「フリーダム!!」な感じ。

 

 それは突然降りてきて、「ああ、そういうことか」となった。

 

 恐怖のために取り繕う必要性がない世界。

 

 ただただシンプルにある世界。

 

 酒のない夏は、よろこびに満ちている。

 

 

 

 数年前に友人と飲んでいて、「世の中のことはみんな逆だよね」という話になった。

 

 その後ちょくちょく動画や情報で見かけるようになったこの考え。

 

 最初は詳細について言葉にすることはできなかった。感覚的なものだったから。

 

 「これってたぶん私たちがさかさまに認識しているだけだよね」という感覚。

 

 それはこういうことなんです。

 

 私たちは過去のデータから今この瞬間を知らず知らずのうちに設定している。

 

 「過去こうだったから私はこういう人」っていう設定のもと、今この瞬間の出来事に対応していく。

 

 「当たり前だ」と思いますよね?

 

 だって、「過去から未来に時間は流れている」と教わってきたし、どうみてもそうとしか認識できないのがこの世界だから。

 

 でもこれが錯覚だとしたら?

 

 今この瞬間、どんな私でも設定できるとしたら?

 

 多分たいていの人は、きつねにつままれたような感覚になり、「先生、何言っているんですか?」ってなると思う。

 

 信じるか信じないかは自由なんだけど。

 

 「それってすごい!!この瞬間、なんでも選択できるってこと!?」って喜ぶ人はごく少数かもしれない。

 

 OSHOがなんかのエッセイで、

 

 いきなり目の前に神さまが現れて、

 

 「今この瞬間、すべての束縛から自由にしてしんぜよう!!」と言ったとしても、たいていの人は「えっいいんですか!」って喜ばず、今の自分の状態に甘んじるだろうって書いていたけど。

 

 たぶん私たちは過去の習いに沿って生きていたほうが安心という根強い錯覚があるのですね。

 

 でも私は信じている。

 

 私たちの本質は神であり創造であると。

 

 そうじゃなければ、あの子どものときの創造性はない。

 

 あのときの創造性にいつの間にか蓋をして(されて)生きていることが、大人の悲しみの一因なのではないでしょうか。

 

 過去のデータに縛られ決めつけることよりも、今この瞬間どうありたいかを設定することが自由にできる。

 

 それが本当だとしたらすごいことだと思いませんか。

 

 

 

 設定ありき。

 

 これを「設定療法(セッティングセラピー)」と呼び、具体的な中身をここに書いていきますね。

 

 これには設定を生きるときの恐怖に対して認知行動療法のアプローチを使うことも含まれている。

 

 恐れは見ることができれば、対処することが可能になるのです。

 

 世の中の悪を見て不機嫌になる。

 

 政治家や殺人犯やひいきのチームの監督(選手)などのふるまいを見て不機嫌になる。

 

 他人の言動を見たり、会社のコンプライアンス違反を見たり、

 

 仕事に手を付けるのが遅い部下を見たり、口うるさい上司を見たり、

 

 戦争や社会情勢を見たりしては不機嫌になる。

 

 世の中には不機嫌になろうと思えばなれるものがいくつもありますね。

 

 でももし不機嫌になる必要がないとしたらどうでしょう。

 

 私たちは不機嫌になることが役に立つと錯覚しているとしたら。

 

 すべての人は幸せになりたいと思っているのですが、私たちもそうですよね。

 

 幸せになりたいのに不機嫌になっているなんて。。。驚きですよね!!

 

 役に立つと錯覚していなければ、そんなもの投げ捨てるはずです。

 

 それなのに不機嫌になっている。

 

 不機嫌になったら何が得られるのでしょう??

 

 「自分が正しい」という認識でしょうか。

 

 今よりよくなるかもしれないという望みでしょうか。

 

 不機嫌になることで誰かが変わると信じているのでしょうか。

 

 ほんとうに社会が変わるのでしょうか。

 

 

 

 よ~~く見てみると不機嫌になることで得られることは何もありません。

 

 得られることが何もないならやらないほうが自分も楽です。

 

 そして、少しでも世界をよくしたいと思っているのなら、

 

 役に立つのは心の平和です。

 

 あなたの(私の)心が平和なら、みんなも平和です。

 

 あなたの(私の)心が喜びなら、みんなも喜びです。

 

 みんなで不機嫌を投げ捨てて、今この瞬間平和でいませんか。

 

 それは今すぐ、今ここでできることなのです。

 

 他人が不機嫌だと辛くなるから、不機嫌をやめてほしいと思ったり、

 

 他人が言うことで落ち込んだり、

 

 することがあるかと思います。

 

 そのとき、「気分のカギを相手に渡している」というイメージを持つことが役に立ちます。

 

 子どもの頃、親が不機嫌なのは自分のせいだと錯覚したり、

 

 友人が言うことに傷ついたりしたことは、多かれ少なかれ誰にでもあると思いますが、

 

 「自分に何かが足りない」という、「不足感」「不充分感」の錯覚を思い起こさせる出来事なので、動揺しているのです。

 

 でももし、何も不足していないとしたら。

 

 相手が不機嫌だからといって動揺することもないし、相手の意見を真に受けることもないわけです。

 

 動揺したり真に受けて傷ついているときには、他人に気分のカギを渡してしまっているんですね。

 

 自分のなかに「不足感」がなければ、他人が自分の気分を変動させることはできないのです。

 

 

 

 私たちには「内なるパワー」があり、それは外側の出来事に何の影響も受けません。

 

 「内なるパワー」は普段うっかり忘れていることが多いので、外側の出来事にうっかり不快にさせられる。

 

 そのときには「内なるパワー」を意識して、「気分のカギ」を取り戻しましょう。

 

 「気分のカギ」は自分がもっている。

 

 なんらかの事象が生じて動揺することがあったとしても、「気分のカギ」をできるだけ早く取り戻す。

 

 自分で自分の機嫌をとれるのは、本当に楽です。

 

 「レジリエンス」「リバウンドメンタリティー」という言葉があります。

 

 「○○があるから私は不幸だ」とどっぷりつかっていることがダメとは言っていませんが、

 

 すべての人は心の奥底では「幸せになりたい」と思っているわけで、

 

 「○○があるが、自分の機嫌は自分でとれる」のほうが、

 

 幸せでいる時間が増えると思いませんか?

 

 

 相手の何気ないひと言に傷ついたり、反応したり。

 

 誰にでもありますよね。

 

 相手に「攻撃された」と思うとき。

 

 それって本当にそうなのか、と見られるようになれば楽になります。

 

 ディーバック・チョプラ博士はあらゆる人に質問をしました。

 

 「何になりたいか」「どう生きたいか」「どうなったら嬉しいか」

 

 いろんな希望や期待を聞いていきましたが、最終的にはみんな「なぜなら、幸せになりたいから」という答えに行きついたそうです。

 

 お金を稼ぎたいのは「幸せになりたいから」、理想のパートナーを見つけたいのは「幸せになりたいから」、家が欲しいのは「幸せになりたいから」、相手に変わって欲しいのは「幸せになりたいから」

 

 みんなそこに行きつくのです。

 

 ここには、「何かを得たら幸せになれるはず」という錯覚があります。

 

 探すところを間違えているのです。

 

 問題は思考、心にあります。

 

 「攻撃みたいに受け取る」という心にあります。

 

 私たちにはふたつのあり方があって、「攻撃みたいに受け取る」あり方は、思考に基づく恐れのあり方です。

 

 今までの人生のなかで「攻撃されないように」防御してきたと思っているので、

 

 攻撃に対する恐れが非常に大きく、それゆえに「攻撃された」と思って防御態勢になるのです。

 

 もうひとつのあり方は「愛のあり方」です。

 

 もしかしたら「攻撃された」というのは錯覚かもしれない。そんなことはないかもしれない。

 

 この状況を「愛のあり方」で対処できないだろうか。

 

 心は錯覚を引き起こし、攻撃されたと言って来ますが、

 

 もしかしたら、この世には攻撃などなくて、愛しかないかもしれないとみるあり方。

 

 問題は心にしかないとしたら、何かを達成しなくても、今すぐに心のあり方を変えるだけで幸せになれるとしたら。

 

 今すぐに間髪入れずに幸せになれるとしたら。

 

 ただそれを知らなかっただけだとしたら。

 

 ボブディランの曲にこんな歌詞があります。

 

 Love is all there is, it makes the world go 'round Love and only love, it can't be denied

 「愛しかない それだけが世界を動かしている」

 

 ほんとうにそうだとしたら。

 

 錯覚し、誤解した心で苦しむよりも、今ここで愛を選択できるとしたら。

 

 

 

 今日も美しい日常を!

 

 

 こんにちは。

 

 つい反応しちゃうことってありますよね。

 

 イラっとしてつい余計なことを言ったり、言いわけまがいのことを言ったり、わざと返事しなかったり、無視したり。

 

 いろんな「反応」を私たちはとっさにしてしまいますが、

 

 よーく見てみると、「自分を守るための行動」なんです。

 

 「自分が攻撃されている」って錯覚しているんですね。

 

 「攻撃されている」と信じて、それに応じた反応をしないと大変なことが起こると錯覚しているんです。

 

 私も未だにやってしまって、その後自分が「嫌ーな」気分になります。

 

 「奇跡のコースを生きる実践書」のなかで、香咲弥須子さんは、

 

 反応したり要求したりしないこと。自分を守らなくてもいいとわかっていることが大事。

 

 と言っています。

 

 

 

 日常のなかで生きていると、これがなかなか難しいけれど。

 

 今日、ここまではいい感じできているけれど、また何かに反応したくなるかもしれない。

 

 そうしたらホーリースピリットにお願いして、

 

 「反応(要求)しようとしている私がいます。それは必要がないことだとわからせてください」

 

 と伝えて、スルーできたら、

 

 その後、どうなるか見てみる。

 

 「シーン」

 

 特に何もなく、淡々と日常は過ぎる。

 

 違うのは、さっきは「攻撃された」思いのなかにいたけれど、「平和のなかにいる」と感じられる。

 

 さあ、今日も練習だ~~。